42.出会い
アリーチェを資料室から追い出したアリエスは、十八年前の社交界の記録――王宮での催しが記載された日誌を求めて別棟にある書庫へと向かうことにした。
先ほど選んだ資料では思うような結果が得られないと早々に見切りをつけたのだ。
図書室と資料室と書庫と、ばらばらに本が収蔵されていることはアリエスの懸案事項の一つである。
調べたい事柄があっても、関連する資料が何の法則もなくそれぞれの場所に収蔵されているのだから、はっきり言って面倒くさい。
アリエスは一生をかけてでも整理しようと以前から決めていたが、今回のことでさらにその思いを強くしていた。
今アリエスが求めているのは当時の文官が記録した日誌だった。
そもそも日誌は担当者によって傾向がかなり違う。
ただ事務的に箇条書きに出来事を記録している者もいれば、噂好きなのかあれこれと己の主観を入れて記録している者もいる。
できれば十八年前の担当者が噂好きでありますようにと願いながら廊下を進んでいると、とある伯爵と出会ってしまった。
「おや、クローヤル女史ではないですか。どちらへいらっしゃるので?」
「ごきげんよう、ムランド伯爵。書庫に向かっております」
「ほう? 今度は何を調べていらっしゃるのですか?」
「調べものではありませんわ。資料室を整理していて、巻数が抜けている本を見つけてしまったのです。それが書庫にあるのではないかと思いまして」
「なるほど。見つかるとよいですな」
「ええ、ありがとうございます。それでは、失礼いたします」
アリエスは生真面目に答えて、軽くお辞儀をすると再び歩き始めた。
ムランド伯爵は収賄リストに名前のあった一人で、アリエスのことをよく思っていないらしい。
今回の事件で収賄に関係していた人物は、アリエスを敵視しているか媚びてくるかのどちらかだった。
どちらにしても面倒くさいのでアリエスは無難な対応をしている。
ただ人間とはとても興味深いのでどんな態度を取られようと公平に、それぞれの人物のことをよく知ろうと努力はしていた。――要するにできる限り弱味を握っておこうとしているのだ。
(ムランド伯爵は傲慢で世間からもあまり好かれていないのよね。そんな方のお相手をするなんて、さすが聖女様だわ)
伯爵に出会ったことで以前覗き見た場面を思い出し、アリエスは顔をしかめた。
ロレンゾは自分のことを変態だと悩んでいるが、アリエスからすればとても可愛く思える。
あれから時々訪ねてくるロレンゾに、素のまま対応すれば満足して帰っていくのだ。
アリエスとしてはイレーンとの関係を続けてくれれば便利だったなと思わなくもないが口を挟むつもりもない。
一階まで下りたアリエスは別棟への近道になる中庭へ足を踏み入れた。
ここはお天気のいい日は暇人が――貴族たちが散策しているが、今日はあいにく曇天で人影はない。
そのためアリエスはこの場所を通り抜けることにしたのだった。
(……子供の……泣き声?)
中庭を少し進んだアリエスの耳に小さな泣き声が聞こえてくる。
アリエスは足を止めて、泣き声の発生源を探した。
すると生垣の隙間を見つけ、スカートを摘まんで数歩芝生のほうへと踏み入れれば、小さな男の子が屈みこんでいる姿が見えた。
年の頃は五歳前後で見るからに上等な服をまとっている。
(……見なかったことにしましょう)
アリエスは気付かれないようにそっと後退してその場を離れようとした。
面白いことは大好きだが、面倒なことは嫌いである。
この少年に関わるとろくなことにならない。
アリエスの直感がそう告げていた。――直感に頼らなくても少し考えればわかることだが。
しかし運が悪いことに、生垣にスカートを引っかけてしまい、がさりと音を立ててしまった。
「だれ?」
「……アリエス・クローヤルと申します、リクハルド殿下」
「ど、どうして、ぼくのことを知ってるの?」
「私は何でも知っておりますの。魔女ですから」
「ま、じょ……?」
「はい。ですから私には近づかないことです。魔女は不吉ですからね。ここでお会いしたことは誰にも秘密ですよ」
「う、うん……」
「それでは、ごきげんよう。殿下」
アリエスは少年が――王子が意味を理解するのを待つこともなく、黒いスカートを翻して去っていった。
どうせすぐに王子のお付きの者が捜しにくるだろう。
その予想は当たり、アリエスが中庭を抜けて廊下を歩いていると、急ぎ足に中庭へと向かう近衛騎士と王子付きの女官たちとすれ違った。
アリエスは何事もなかったかのように書庫の係員に軽く頭を下げて入ると、大体この場所だろうという書架に向かう。
書庫の係員は噂では左遷された文官らしく、やる気がまったく感じられない。
本の並びも簡単にまとめてあるだけで、一定の法則があるわけではないので探し物にはかなり苦労するのだ。
図書室の司書たちも本は好きだが整理整頓は苦手らしく、何度か足を運んだアリエスは呆れたものだった。
それもどうやらこの国では本の価値をあまり認められていないせいだろう。
先人の経験と知恵が詰まった宝の山だというのに、顧みられることのない本が山とある。
貴族の子供たちも家庭教師から教えられるのは読み書きから始まって、お決まりの歴史と少しばかりの計算。
男の子は学校で政治学や語学も教えられるようだが、一度ルドルフの教科書を読んだアリエスは単一的な内容にがっかりした。
女の子は家で刺繍や水彩画、音楽を学ぶ。
これら自体は素晴らしいことではあるが、学問は一定の水準を超えようとすると必要ないと切り捨てられるのだ。
(ま、私には関係ないけど)
もっと女の子にも教育を、とか先人の知恵を大切に、などといったことを謳うつもりはない。
アリエスが楽しめればそれでよかった。
ただ単に趣味で資料室、図書室、書庫の整理整頓をしたいだけである。
(あ、あったわ。たぶんこのあたりね……)
十数年前の文官が記録した日誌を見つけ、アリエスは手に取った。
それから中身をぱらぱらとめくって日付を確認し、何冊かを抱えて係員にまた軽くお辞儀をして書庫を出る。
気が付けば太陽はすっかり沈んでしまったらしく、使用人たちが忙しなく廊下に明かりを灯していく。
アリエスは日誌を読むのが待ちきれず、そのまま部屋へと持ち帰ることにした。




