40.遺産
「クローヤル女史! このたびはありがとうございました! まとまった金が返ってきたおかげで、借金が返せたんですよ!」
「それはよかったですね。ですが私は自分のために当然の請求をしただけですから、お礼は必要ございません」
「またまた~。そうやって女史はすぐに謙遜なさるんだから~」
アリエスが仕事を終え、執務棟から使用人棟へ戻ろうとしたところで、従僕の一人に声をかけられた。
謙遜でも何でもなく本気で自分のためにしたことだが、周囲はこんな調子でアリエスにお礼を伝えてくる。
正直に言えば、顔見知りでもない男性にこうして馴れ馴れしくされることは不快だった。
その気持ちがはっきり顔に表れているのだが、皆はなぜか気にしていない。
ユッタ情報によると、全く笑わないアリエスはクールでかっこいいと、女性だけでなく男性にも最近は人気らしかった。
さらには『アリエス様を応援する会』は『アリエス様親衛隊』となり隊員数も増えているらしい。
さすがにそれは鬱陶しいが実害はまだないので、今のところは黙認し続けている。
「――あまりいい気にならないことね」
アリエスが従僕に返事をしている横を女官長が捨て台詞を残して通り過ぎていく。
その言葉は従僕にも聞こえたらしく目を見開いた。
だがアリエスは驚くことなくさっと振り向くと、女官長の背に向けてはっきり問いかけた。
「女官長はどんなご気分ですか?」
「……何ですって?」
「女官長は今どんなご気分ですか? 私はもちろんお金が返ってきましたのでとてもいい気分です」
「あなたね……」
「あ、そうでした! 女官長のお給金はちゃんと支払われていたんでしたね。でしたら、いい気分とはならないかもしれませんね。それで、お給金がちゃんと支払われて喜ぶ私たちを見て、どんなご気分ですか?」
淡々とした口調で問いかけるアリエスを、新しい女官長補佐のマニエル夫人は唖然として見ている。
しかし女官長は周囲に人が集まりだしたことに気付き、かすかに口角を上げて笑顔らしき表情になった。
「もちろん私も嬉しいわ。今回のことは財務官たちとロイヤがやったこととはいえ、私の監督責任でもあったものね。だから私は半年の減給処分を受けてしまったけれど、皆のためにはよかったと思うわ」
今まで高飛車にものを言うだけだった女官長の変化に皆は戸惑っているようだった。
どうやら今度のことで皆の怒りが向けられないようにと、女官長なりに態度を改めたらしい。
ここ最近、横領はロイヤと財務官たちの仕業であり、自分は一切関わっていないと何度も強調していた。
ただ残念なことに、使用人たちにはそんな女官長の態度はわざとらしく思えたようだ。
アリエスが部屋に戻ると、ユッタが不満そうにぼやいた。
「今さら都合がいいですよ。散々私たちに冷たく偉そうに当たっておきながら、自分の立場が危うくなったらヘラヘラ笑って媚びを売ってくるなんて」
「ヘラヘラ笑ってはいないけれど、無理して笑ってはいるわね」
女官長の笑顔は引きつっており不自然でしかなかった。
笑いたくもないのに笑わなければならないつらさはわかる。
とはいえ、女官長に同情する気は全くない。
どちらかというと、新しく女官長補佐になったマニエル夫人にアリエスは同情していた。
以前からロイヤとライバル関係にあったらしい夫人は、女官長補佐になってすぐの頃は意気揚々としていたのだ。
それがやってもいないことで皆から侮蔑の視線を向けられ、今ではすっかり消沈していた。
(たまにいるわよね。貧乏クジを引いてしまう運の悪い人)
自分が望んでいたのだから運が悪いとは言わないかもしれないが、この横領事件がなければもっと偉ぶれていただろう。
実はもう一人、マニエル夫人より先に女官長に声をかけられた人物がいることをアリエスは知っていた。
ロレンゾの元恋人であるイレーンだ。
だがイレーンは「大変光栄ではございますが、そのような責任ある大役は私では力不足でございます」と辞退していた。
アリエスは陰でこっそり聞きながら、うまく逃げたなと感心したものだ。
「そもそもどうして女官長は降格処分にならなかったんですかね? アリエス様が女官長になってくださればいいのにって、みんな言ってるんですよ」
「……そのような責任ある大役は私では力不足だわ。この王宮のこともまだまだ知らないことばかりだもの」
「ええ? そんなことないですよ~! またそうやって謙遜されるんだから。アリエス様なら絶対に大丈夫ですよ。むしろ役不足なんです!」
「……ありがとう、ユッタ」
ユッタは素直で明るく本当に可愛い。
ただあまりに無邪気すぎて、気をつけないとアリエスまで足をすくわれかねなかった。
「ユッタ、今日はもういいわ。また明日よろしくね」
「はい、かしこまりました」
ユッタが出ていくと、アリエスは新しいカップにお茶を注いだ。
すると、明日のために女官服のしわを伸ばしてくれていたフロリスが慌てる。
「アリエス様、お茶なら私が――」
「いいのよ。これはフロリスのために注いだの」
「私のため、ですか?」
「ええ。たまにはゆっくり二人でお茶を飲みましょう? ちょっと冷めてしまったけれどね」
言いながら、アリエスは自分のカップにもお茶を注ぎ足す。
それから向かいの椅子を勧めると、フロリスは遠慮がちに座った。
「――ありがとうございます」
「いいえ、いいのよ。それよりも、あなたはこのままで本当にいいの?」
「はい。私はお金の使い方もわかりませんし、このままアリエス様のお世話をさせていただけたら、それで幸せです」
「そう……。でも嫌になったらいつでも辞めていいから言ってね? お金もちゃんと管理しておくから」
「アリエス様のお傍にいさせてくださるなら、辞めたりなんてしません! お金だって、どうしたらいいかわからないくらいで……本当にアリエス様に感謝してもしきれないです」
「別に感謝はいらないのよ。ついでだから」
今にも泣きそうな顔のフロリスの訴えに、アリエスはあっさり答えてぬるくなったお茶を飲んだ。
だがその頭の中では、フロリスが手に入れた老侯の遺産をどう運用しようかと考えていた。
ロレンゾが管財人に白状させたところによると、やはりフロリスにも少なくない財産が遺されていたのだ。
名目は老人の最期の時を楽しいものにしてくれたということであったので、やはりフロリスの出生の秘密を明かすつもりはなかったのだろう。
ロレンゾの父親はどうやってか遺言の内容を知り、管財人と結託して老侯の死後、遺言状を書き換えたらしかった。
それで筆跡を真似ることのできる者がいると、あのときも主張していたのだ。
ちなみに弁護士が亡くなったことについては、アリエスは興味ないので調べてはいない。
ただ管財人がロレンゾの協力要請に素直に応じたことから、大体は想像できる。
だがアリエスは事実が知りたいだけであり、罪を暴くとか罰を与えたいという気持ちはないので、それはこれからロレンゾ一人で頑張ればいいと思っていた。
「じゃあ、改めてこれからもよろしくね、フロリス」
「はい! よろしくお願いいたします!」
アリエスの言葉に、フロリスは立ち上がって嬉しそうに答えた。
それでもアリエスの頭の中は、土地を買って小作人を雇うのもいいかもしれない、といった考えに占められていた。
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