39.ロマンチック
「確かこう書かれていたわ。『彼女は私の輝ける星だ。彼女と目が合うために私が毎日どれだけの努力をしているか。その努力が実らなかった日はまるで真冬の寒空の下に裸で放りだされたように心も体も寒さに凍えてしまう』とありましたけれど、実際に裸で放り出された経験があるのか私は気になりましたわ」
「ロマンチックに感じたんじゃないのかよ」
「それに続く言葉もまた素敵でしたわ。『努力が実った日、それはまるで真冬の曇り空の下で太陽が顔を出したときのように心も体も温まる』とありました。これは先の言葉に掛けてわざと同じような表現を使っているのか、それともただの語彙不足なのかが気になりましたね」
「添削するなよ」
軽く見ただけのはずのアリエスの口から語られる日記の内容に、諦めたのか侯爵は頭を抱えていた。
だがロイヤはさらに顔を輝かせ、アリエスの言葉に聞き入っている。――もちろん財務官も法務官も職場長たちも。
一人だけ、ジークが相変わらず突っ込みを入れるが誰も聞いていない。
「ええっと、続きは……そうね、『碧色の瞳が私に向けられると、私の心に光が灯る。小鳥のさえずりのような歌声を聞くと、私の心は躍る。君は私の全てを明るくしてくれる。だから君の瞳のようなエメラルドを贈り、君の歌声のような小鳥を模った金のブローチを贈った。なのになぜ君は満足してくれないのだろう』とあったわ。おそらく彼女の愛はもっと高額だったのね?」
問いかけるようにアリエスはロイヤの茶色の瞳をまっすぐに見つめた。
アリエスだけでなく、皆がロイヤに注目する。
「……私じゃないわ」
「ええ?」
「侯爵様の日記に出てくるのは私じゃないわ」
「まあ、そうなの!? でも確かにロイヤさんの名前も何度も書かれていたのよ!?」
白々しくアリエスは驚いてみせた。
誰もが侯爵の日記に書かれていた相手は侯爵の愛人だと噂されていた女優のことだとわかっていて、直接読んで確かめたいようだった。
その日記はアリエスが預かっているが、それはここで言うつもりはない。
「私の勘違いだったかどうかは、後で法務官の方たちに確認してもらうわね。それでは私はそろそろ失礼してもよろしいでしょうか?」
「そうですね。では、職場長の方々は後日改めて聴取いたしますので、よろしくお願いいたします。それからロイヤ殿と財務官の方々、またカスペル侯爵はこのまま身柄を拘束させていただきます」
「何を馬鹿なことを! 私を誰だと――」
「父上、これ以上侯爵家の名を汚さないでください」
アリエスの言葉に皆がはっと我に返ったように動き始めた。
ヘンリーがこの場にいる者たちにこれからのことを申し渡すと職場長たちは緊張した面持ちで頷き、財務官たちはがっくりとうなだれる。
そのなかで侯爵だけがまた無駄な主張をしようとしたが、ロレンゾが息子として厳しい口調で窘めた。
侯爵はまだ納得いかないようだったが、ロレンゾと衛兵に両脇を固められて部屋から連れ出されていく。
十分に面白い見ものだったなと満足して、アリエスも部屋を出ようとしたところで、ロイヤがアリエスの前にやってきた。
どうやらロイヤを拘束していた衛兵たちが、女性だからと油断したらしい。
誰もがその行動に驚いている間にロイヤは手を振り上げ、アリエスの頬を叩いた。
パシンッと甲高い音が部屋に響いた瞬間、再びパシンッと聞こえ、さらにもう一回パシンッと響く。
皆は唖然として目を見開き、何人かは口まで開いている。
「あら、失礼。やられたらそれ以上にやり返すことにしているの」
叩かれた両頬を手で押さえ、痛みのためか涙を滲ませるロイヤに、アリエスはかすかに赤くなった頬もそのままに告げた。
ロイヤは言葉もないようで口をぱくぱくさせながら、衛兵に連れられて行く。
「申し訳ありません、クローヤル女史」
「これはあなたたちの油断が招いたことですから、一つ貸しね」
謝罪するガイウスに許すと言うこともなく、ヘンリーをちらりと見てから踵を返した。
これで二人に貸しができたと思えば、頬の痛みなどたいしたことではない。
女性の平手打ちなどたかがしれている。
「送っていくよ」
「……ええ、お願いします」
「素直だな」
「今日はもう十分楽しんだもの」
声をかけたジークはアリエスの返答ににやりと笑った。
女官長が何か言いたそうにしていたが、衛兵が傍にいるために諦めたらしい。
そのことにジークも気付いたのだ。
「あれ、避けられただろ?」
「あなたは止められたでしょう?」
「相変わらずあんたといると退屈しないな」
「それはよかったわ。いつも退屈なことばかり考えていたら、頭が腐ってしまうものね」
「そうだな。だからみんな気分転換には協力してくれるんだよ」
「恵まれてるのね」
「人手不足だけどな」
どうでもいいことを話しつつ、アリエスはすれ違う使用人たちに軽く頭を下げて挨拶しながら進んだ。
みんな査問会がどうなったか知りたいようだが、衛兵が傍にいるために遠慮しているようだ。
女官長除けにジークに同行をお願いしたが、予想以上に効果がある。
そのため少しくらいはジークに付き合ってもいいだろうと判断して、アリエスは資料室に向かった。
「それで、何が知りたいの?」
「それほど大したことじゃないさ。少し前、カスペル侯爵が留守のときに、侯爵家に王宮のメイドが遣いで訪れたらしいな。ロレンゾの大切なものを届けにきたとかで」
「……よほど大切なものだったのでしょうね。それで、そんなことを私に訊いてどうするのかしら?」
「いや、知りたいのはそのことじゃない。ちょっとした疑問なんだが、アリエスはまさか鍵がかかった抽斗を開けたりなんてできないよな?」
資料室に入ると、ジークは当然とばかりに椅子に座った。
アリエスは置かれたままだった水差しでハンカチを濡らして頬に当てる。
大丈夫か、の一言もないジークにアリエスの好感度は上がった。
「……ハリストフ伯爵家の厩舎で働いていた馬丁たちのなかに一人、かなり年配の男性がいたのだけれど、彼は母屋には立ち入り禁止だったの」
「盗み癖でもあったのか?」
「さあ? 癖があるのかどうかは知らないけれど、以前は錠前屋として働いていたそうよ。とても気のいい人で、馬に乗るときは彼に世話をお願いしていたわ」
アリエスは頬にハンカチを当てながらカーテンを少しだけ開けると、昔を懐かしむように語った。
だが、まだあれから一年も経っていないのだ。
あの頃はいつ地獄に落ちる時間になるのかと、常に不安だった。
それでも親切に接してくれた伯爵家の使用人たちのことは忘れていない。――そのときに得た知識も。
「それで謎が解けた。アリエスはずいぶんいろいろな場所に出入りしているようだが、いったいどうやっているのか不思議だったんだ」
「警備を強化するつもり?」
「いや、別に不都合はないし、今のままでいいだろ」
「……ハリストフ家は伯爵家ではあるけれど、ポルドロフ王国建国当時から続く家柄で、それをとても誇りにしているの。そして四代前には王女殿下が降嫁されたそうよ。そのときの持参金でハリストフ伯爵家は今もなお潤っているわ。まあ、先々代の経営手腕が優れていたというのも大きいわね」
唐突に始めた元婚家の話にも、ジークは驚くことなく黙って聞いていた。
アリエスは当時のことを思い出したのか、顔をしかめながらも続ける。
「だから四年前、ポルドロフ王太子殿下が成人された際の祝賀会に出席して、はじめて殿下に拝謁したときぞっとしたわ。気持ち悪いほどハリストフに似ていたんですもの。……その気質がね」
「王女が他国に嫁ぐこともなく伯爵家に降嫁したのは、その気質か?」
「おそらくそうだと思うわ。もし私に娘がいて……いえ、友人でも何でも、ポルドロフ王国の王太子殿下に嫁ぐなんて話が持ち上がったら反対するわね」
「――先日、テブラン公爵のご令嬢に婚約の打診があったそうだ」
「らしいわね」
「何だ、やはり知ってたのか」
アリエスがあっさり頷くと、ジークは噴き出した。
あくまでも打診であり、まだ内密の話なのだ。
テブラン公爵家は亡くなった王妃の生家である。
公爵としてはたとえ亡くなった娘が王子を産んでいようと安心できないのか、妹を次の王妃にさせたかったらしい。
それが叶わないと知って一時は気落ちしていたようだが、ここ最近はまた以前の元気を取り戻していた。
要するに公爵はこの縁談に乗り気なのだ。
「ポルドロフ王国と将来的に戦になってもかまわないならいいんじゃないかしら。いえ、それは言い過ぎね。公爵が何があっても口を閉ざすか、陛下が相手にしなければ戦にはならないわ」
「それほどに酷いのか?」
「やっぱりこの国は人手不足ね。もう少し仕事のできる密偵を雇えばいいのに」
アリエスが呆れたと言わんばかりにため息を吐くと、ジークは降参とばかりに両手を上げた。
それから立ち上がると、出口へ向かう。
「この間スカウトした優秀な人材には断られたんだよ。しかも情報提供料の基準が難しすぎる」
「きっと自由にさせてくれればいいのよ」
「それは高いな。自由ってのは、簡単には手に入れられないものだからな」
そう言い残して、ジークは資料室から出ていった。
アリエスは見送ることもなく、頬からハンカチを外す。
もう十分に冷やしたからか、痛みを感じることはなかった。




