38.日記
「いいえ、父上。違います。彼女は関係ありません」
「関係ないことはない! お前のような愚直な者がここまでのことをできるはずがないんだ! 他人の日記に手を付けるなど考えることさえしないだろう!」
ロレンゾの否定の言葉も聞かず、侯爵はアリエスへ突進してきた。
慌ててロレンゾは止めようとしたが位置的に難しく、侯爵の勢いもあって手を振り払われる。
柱とカーテンの陰に隠れるように立っていたジークが素早く動きアリエスの前へと出たが、それより先にガイウスが止めに入った。
すぐにロレンゾも追いつき、侯爵を拘束する。
「放せ! 私を誰だと思っているんだ! あの女に直接問いただすだけだ!」
暴れる侯爵を二人がかりで引き離す間、アリエスは逃げることもせずに平然と立っていた。
ジークはガイウスが侯爵を取り押さえた時点で元の位置に戻っている。
「カスペル侯爵、もう諦めたらどうだね? 君が贈賄をしていた証拠はすでにあるんだ。君が私の欲しがっていた絵画の取引を持ちかけてきたときの話をしてもいい。断ったものの私だって心惹かれなかったわけじゃない。だがあの取引に応じていたら、私は今頃あの帳簿に名前が載っていたんだろうね」
「ガスパル……貴様まで……」
「私は法務長官として、常に公平でありたいと思っている。だから身分に関係なく、誰の供述も証言も全て聴いた上で裁きを下すつもりだよ」
今までずっと沈黙を守っていたガスパル伯爵は、穏やかな声で侯爵に話しかけた。
侯爵はぎっと伯爵を睨みつけ、ドスンと椅子に座る。
これでは二人とも日ごろの噂と逆だが、財務官たちは救い主を見るように伯爵へ涙で滲んだ目を向けた。
「私は……私はどうなるの!? あなたのために存在もしない女官を作り出して、皆のお給金を盗んでいたのよ! あなたが結婚を約束してくれたから……」
「ロイヤ?」
「何だ、君は?」
「あなたの恋人じゃない! つい先日だって私とあなたの娘が欲しいって言っていたでしょう!?」
女官長の戸惑いも無視して、ロイヤは侯爵にすがるように訴えた。
しかし、侯爵は無情にも切り捨てる。
「悪いが、君の妄想じゃないかね? 裁きを受ける怖さはわかるが、君と私は立場が違う。これ以上絡まないでくれ。そうすれば、君の非礼は許そう」
「何を言うの!? 私はあなたのために二年間も尽くしてきたのよ! このままだと結婚どころか、一生牢屋から出られないわ!」
「あら、それはどうかしら?」
涙を流して取り乱すロイヤの言葉に、アリエスは口を挟んだ。
傍観するだけの予定が巻き込まれたのだから、もう好き放題やってしまうことにしたのだ。
「ど、どういうこと……?」
「ロイヤさんは二年間も、女性使用人たちのお給金を盗んでいたんですよね? その補償はどうされるのですか? まさか盗まれた側は泣き寝入り? そんなこと、国王陛下がお許しになるかしら?」
当然、女性使用人たちの怒りはロイヤに向けられるだろう。
それどころか、アリエスは〝心のない王様〟が横領した者を――犯罪者を投獄だけで許すのかと暗に問いかけていた。
アリエスの疑問を聞いて、財務官たちは息を呑み、頭を抱え、恐怖に震えている。
「へ、陛下が使用人たちのお給金なんて些細なことに関心をお持ちになるはずがないわ!」
「皆の給金については、侯爵家でできる限り補償するつもりだ」
「ロレンゾ! 何を勝手なことを言っている! 許さんぞ!」
「侯爵がお許しにならなくても、陛下がそのように手配してくださるでしょう」
「何を――」
「まあ、そうなるでしょうな」
苦し紛れのロイヤの反論に答えたのはロレンゾだった。
途端に侯爵は怒りをあらわにする。
ここまで事実が発覚しておきながらなぜ自分の意見が通ると思っているのか、アリエスは不思議だった。
本来なら侯爵がたとえ何の罪に加担していなくても、上官というだけで処罰は下されるだろう。
そもそも事は横領だけの問題ではないのだ。
そのことを思い出させるかのようにロレンゾの言葉にガスパル伯爵が頷いた。
「きっと陛下は侯爵様が大切に書き記された贈賄の記録簿にとてもご興味をお持ちになるでしょうね。まあ、大変! 侯爵様からの金品を受け取った方たちはどうなるのかしら?」
「侯爵からいくら受け取ったか、ではなく、どれだけの便宜を図ったかが問題でしょうなあ。だが今からでも受け取った金品を返せば――被害者たちに謝罪の気持ちも込めれば、陛下もそこまでお怒りになることはないとは思いますよ」
「そうですか。少し安心しました。一斉に粛清なんてことになったら、国が混乱しかねませんものね?」
「おっしゃるとおりです」
アリエスがわざとらしく驚いてみせると、ガスパル伯爵はそれに乗って穏やかに答えてくれる。
その内容は、さっさと自分から名乗り出て金品を返還すれば――さらに色をつければ少しは国王の心証もよくなるだろう、と告げていた。
そこでアリエスは、処罰を下すにもやり方に気をつけてくださいね、と返す。
「おいおい、相手は法務長官だぞ?」
ガスパル伯爵がにっこり微笑んで答えると、アリエスの背後でジークがぼそりと呟いた。
そんなジークを無視して、アリエスは続ける。
「さすがガスパル伯爵ですわ。侯爵様の日記には金品を受け取ろうとしない伯爵様に対して、罵詈雑言が書かれていましたのよ?」
「お前は私の日記を読んだのか!」
「カスペル騎士に相談されて少しだけ。ですがご安心ください。最初から最後まで軽く拝見しただけですから」
「軽くねえだろ」
怒りか羞恥かで顔を赤くする侯爵に、アリエスは淡々と答えた。
すかさずジークが突っ込んだが、また無視をする。
読んだわけではなく、見ただけなのだから軽くなのだ。
「ロレンゾ……貴様、鍵のかかった抽斗をあさったのか!」
「父上、それは――」
「まあ、侯爵様。誰にだって鍵のかけ忘れなんてありますでしょう? それに恥ずかしがる必要もありませんわ。私は今、資料室の整理を担当しておりますが、その中には過去の偉人の日記もございますのよ? 過去に生きた多くの方の日記が後世に遺され読まれているのですもの。侯爵様の書かれた日記も素敵でしたわ。特にロイヤさんへの愛を綴った言葉のロマンチックなこと!」
「何の慰めにもならないどころか、止めを刺してるぞ」
少々興奮した様子でアリエスが語れば、またまたジークが小声で突っ込む。
皆は興味津々でアリエスの暴露話に耳を傾け、侯爵はどうにかやめさせようとアリエスへ近づこうとしていた。
そんな侯爵をロレンゾは申し訳なさそうに拘束し、ガスパル伯爵は楽しげに目を輝かせている。
なかなか洒落のわかる人だなとアリエスは思いながら、伯爵以上に目を輝かせているロイヤに視線を向けた。
ロイヤは先ほどまでの顔色の悪さが嘘のように頬を染めていた。




