29.お願い
「どうかされましたか?」
「……すみません、気分が悪くて」
「では誰か人を呼んできましょう」
「いいえ、どうか……少し横になればよくなると思いますから、そちらの部屋まで付き添っていただけませんか?」
「しかし……」
「お願いします」
「――わかりました」
廊下でうずくまっていたアリエスは、ロレンゾのちょろさに驚いていた。
アリエスは特に声を震わせもしていなければ、はっきりと言葉を口にしている。
ロレンゾがかすかにためらったのは、女性に触れていいものか、部屋で二人きりになってもいいものかといった清廉な心持ちからだろう。
遠慮がちにアリエスに触れると、それでも力強く支えて部屋へと連れて入った。
部屋は暗かったが窓は開けられているのか、カーテンが風に揺れている。
その窓の下に長椅子を見つけ、ロレンゾはアリエスをそこまで支えて歩いた。
「ありがとうございます、カスペル騎士」
「いいえ、礼には及びません。今から誰か呼んできますから、しばらく――!?」
「それは困るわ、ロレンゾ」
「……何を?」
アリエスはロレンゾの腕を強く引っ張って長椅子に倒れ込ませると、自身は立ち上がった。
驚くロレンゾの足の間――長椅子の座面を右足で踏みつけて、アリエスはぐっと顔を近づける。
「あなたは踏みつけられるのが好きでしょう?」
「な、何を言って……」
「それともマルケス夫人にだから、踏まれるのが好きなのかしら?」
アリエスの問いかけにロレンゾははっとして顔を赤くした。
その表情はイレーンにいたぶられているときと同じである。
どうやらイレーンに操を立てているわけではなさそうだと判断して、アリエスは鼻を鳴らした。
やはり恋だの愛だのは、性欲でしかない。
「残念ながら、私にはあなたやイレーンのような趣味はないの」
蔑むように吐き出したアリエスは、自分の覗き趣味については棚に上げている。
ロレンゾは羞恥なのか顔を赤くしながらもアリエスを睨みつけた。
「私もイレーンも恥じるようなことはしていない!」
「そう? それならなぜこそこそと隠れて会っているの? 堂々とすればいいじゃない」
「そ、それは……イレーンは私のためを思って、秘密にしているんだ!」
「あらまあ」
きっとあなたの将来のためとか適当なことを言って、ロレンゾの求婚を断っているのだろう。
ロレンゾほど生真面目な人間なら、ケジメをつけないわけがないのだ。
「イレーンは自分が未亡人だからと……しかも身分的にも侯爵家嫡男の私とは釣り合わないと……」
「それで素直にあなたは秘密の関係を続けているの?」
「イレーンの悲しむ顔は見たくないんだ」
「そうよね……」
蔑まれるほうがお好みだものね、とは口にすることを我慢した。
秘密にしている理由が予想通りで面白くもなんともない。
ロレンゾは乙女から見れば白馬に乗った騎士であり、今のアリエスにはその潔癖さが苛々した。
「それじゃあ、イレーンのために秘密をばらされたくなければ、私のお願いを聞いてほしいの」
「脅迫する気か!?」
「ええ、そうよ。愛を取るか、家族を取るかの選択をしてほしいの」
「……どういうことだ?」
いつの間にかロレンゾから淑女に対する敬語が抜けている。
こちらのほうがアリエスは好ましく、口調をやわらげた。
「あなたのお父様に愛人がいるのはご存じ?」
「――ああ」
「街に一人囲っていて、とある子爵未亡人と懇意にしていて、女官とも親しくされているわ」
「三人もいるのか!?」
「だけど街に囲っている一人はお金がかかりすぎるらしいから、別れるつもりだそうよ」
「ちょっと待ってくれ……。どうしてそんなに詳しいんだ? まさか――」
「噂よ。みんなの大好きな噂話に耳を傾けていれば、色々と結びつくものなのよ」
ロレンゾにとって父親に愛人がいるというだけで許しがたいようだったが、三人もいると知ってかなりショックを受けたようだ。
これはいい傾向だなと思っていたところで、妙な勘繰りをされそうになり、アリエスは早々に切り捨てた。
「問題は愛人の数じゃないのよ。あなたの妹なの」
「アリーチェに――妹に何をする気だ!?」
「何も。私は何もしないわ。ただあなたのお父様が妹さんを陛下の再婚相手にと話を進めていらしたのはご存じね?」
「ああ、知っている。だが妹にはそのような大役は無理だ。それこそ王妃陛下となられる方は……」
言いかけて、ロレンゾは口を噤んだ。
思い当たる人物がいたのだろうが、口にはできなかったのだろう。
自分の恋人というだけでなく、彼女は身分が低すぎるのだ。
後妻になるとはいえ、父親を筆頭に貴族の反発は必至である。
アリエスにとってそれはどうでもいいので、気にせず話を続けた。
「妹さんを王妃様にするために、あなたのお父様はかなりのお金をばらまいたようよ。そのお金はどこから出ていると思う? 私たちのお給金よ」
「まさか!」
「本当よ。その証拠は押さえてあるわ。あなたのお父様は財務長官の座を利用して、使用人たちのお給金やその他いろいろなことから少しずつ誤魔化していたの。もちろん実行犯は別にいるけれど、彼らはあなたのお父様に言いくるめられて足を突っ込んでしまったのね。そして今はもう抜けられないでいる」
「そんな……」
青ざめてかすかに震えるロレンゾはいつもの精悍な騎士の姿からは想像できないほどだった。
その姿に特に感情を揺さぶられることもなく、アリエスは淡々と続ける。
「まあ、お給金のことはいいのよ。それは私が自分自身できっちり取り返すから。でもどうせならとことん追い詰めたほうが面白いでしょう?」
「……まだ何かあるのか?」
「それを教える前に、あなたが私に協力してくれるかの返事をもらわないと」
「そこまで言っておいて、私が協力しなければどうするつもりだ? 私がこのことを父に言わないとでも?」
ロレンゾはここにきてようやく目が覚めたのか頭が働きだしたのか、アリエスに反抗的な視線を向けた。
清廉潔白だの品行方正だのと言われているロレンゾの人間らしい表情を見て、アリエスはわくわくしてきていた。
「証拠はしっかり掴んでいるから、賃金横領をなかったことにはできないわ。あなたのお父様ができるのは、自分は関係ないとすることだけ。要するに罰を受けるのはあなたのお父様の部下たちで、カスペル侯爵家は無事ってことね。もちろんそれがあなたにとっては最良の解決方法ね。次期カスペル侯爵さん」




