28.トカゲ
「いやあ、申し訳なかったですね。こんなことのためにわざわざご足労いただいて」
「ある意味自業自得ですから。私は医師でも法務官でもありませんが、以前興味半分で口を出したのが災いしましたね。そのせいであなた方にご迷惑をおかけしたことは申し訳なく思います」
アリエスが本気の謝罪の言葉を口にすると、ガイウスは驚いたようだ。
目を丸くしてアリエスを見下ろす。
「あなたは謝罪することもできるんですね」
「あなたは失礼ですね」
「身分の高い方は謝罪することがお嫌いなようですから」
「ああ、それは違うわ。その方たちはご自分が悪いと思っていないからでしょう」
アリエスは井戸で水を汲んで手を洗いながら、ガイウスに答えた。
そして今度は自分のハンカチで手を拭く。
使用人棟に再び戻ると、アリエスは足を止めてガイウスを見上げた。
ガイウスも足を止めてどうしたのかというようにアリエスを見下ろす。
「もうここまででけっこうです。送ってくださり、ありがとうございました」
「お部屋の前までお送りいたしますよ」
「けっこうです、と申しております」
「そうですか。では、これで失礼いたします。ご協力、感謝いたします」
アリエスに向けて敬礼すると、ガイウスは踵を返した。
しかしすぐに立ち止まり、アリエスの背後から声をかける。
「私が犬なら、あなたは猫ですね」
その言葉に何も返さず、振り向くこともせず、アリエスは自室に向かった。
そしてようやく部屋に入ると、フロリスが駆け寄ってくる。
「アリエス様、このように遅くなられるなど、何かあったのですか?」
「大したことはなかったのよ。ただ――」
「アリエス様! また事件を解決されたそうですね!」
「……ユッタ、それはちょっと違うわ」
それほど遅くはなっていないのだが、フロリスは過保護な親のようにアリエスのことを心配する。
フロリスに協力してもらっていることを考えれば仕方ないのかもしれない。
アリエスは何があったのか説明しようとして、部屋に飛び込んできたユッタに遮られてしまった。
「ですが、料理人が裏庭で亡くなっていた原因を突き止めたとか! やっぱりアリエス様はすごいって、今度は殺人事件じゃなくて安心したってみんな言ってます!」
「あれが事故だってことは、衛兵の方たちもわかっていらしたのよ。だけど……念のために私にも確認してほしいと衛兵長がおっしゃったの。だからすごいのは衛兵長じゃないかしら?」
「えぇ……そんなことはないです。みんなアリエス様のおっしゃることだから信じてるんですよ。衛兵なんて怖いだけですもん」
ユッタは自分が犯人にされそうになったからか、衛兵や騎士たちのことが嫌いだ。
それはどうやらフロリスも同様らしく、何度も頷いている。
「騎士様たちはお偉い方ばかりで仕方ないですけど、衛兵の人たちまで威張ってますよね? 私も苦手です」
「そうそう! それにアリエス様以外の女官の方たちもお高くとまってて、嫌な感じなのよね? だから私、みんなに羨ましがられてるもの」
「私もです。だけど私は嫌みを言われちゃいます。『あなたみたいな鈍臭い子が専属メイドでいられるのも、アリエス様がお優しいからよ』って」
「それは事実だから仕方ないわ」
「ユッタさん、ひどいです」
いつの間にかフロリスとユッタのアリエス賞賛は衛兵や女官の悪口になっていたが、アリエスは口を挟まず黙って聞いていた。
フロリスは確かにメイドとしては鈍臭いが侍女としては使える。
そのことにユッタさえも気づいていないのだから、思い込みとは怖いなと思っていた。
アリエスも女官長との初対面の印象が最悪だったため、しばらくは女官長が女官や侍女たちの賃金の一部を着服しているのかと考えていたくらいだ。
はっきり言って、ロイヤは女官長のただの腰ぎんちゃくで、そのような大胆な行動をする度胸も頭もないように見えた。
実際、一人ではできなかっただろう。
(そろそろお給金を返してもらわないとね……)
だがロイヤだけなら簡単にしっぽを捕まえられるが――実際に証拠は見つけたが、次に出てくるのは大蛇なのだ。
ひょっとしてトカゲのしっぽ切りで終わる場合もある。
(おそらく切り捨てられて終わりね……)
それはそれで面白くない。
どうせなら徹底的にやらなければつまらないだろう。
もし負ければそれまで。
責任を取ってクローヤル伯爵家まで累が及ぶかもしれないが、アリエスの娯楽のために――正義のために犠牲になってもらおう。
(ジークなら……)
そこまで考えて、アリエスは首を振った。
他人は当てにならない。
だから誰にも頼らないと決めたのだ。
(まず攻略するべきは、ロレンゾね)
清廉潔白、質実剛健、と言えば聞こえはいいが、要するに汚れを知らない世間知らずのお坊ちゃんだ。
少しばかりお願いをすれば素直に聞いてくれるだろう。
(良くも悪くもロレンゾは騎士道精神に忠実だもの。気の毒に)
大方の物的証拠は押さえているが、決定的なものはまだだった。
それを手に入れるためには冒険が過ぎるがそれもまた面白い。
「……フロリス、ありがとうね。あなたは私の幸運の女神だわ」
「何をおっしゃいますか! 私のほうこそ、アリエス様は幸運の女神様でございます!」
湯船から上がって体を拭いてくれるフロリスに、アリエスは唐突にお礼を言った。
フロリスがいなければここまで早く賃金着服の――横領の黒幕にたどり着けなかっただろう。
時間を要してロイヤが実行犯であることは突き止めることができても、そこで終わってしまっていたはずだ。
それで黒幕はのうのうと暮らしていたのかと思うと腹が立つ。
全ては本来得るはずだったお給金のため。
正義なんてどうでもいい。
ついでに楽しめれば最高のご褒美である。
アリエスは自室に戻ってフロリスに髪を梳いてもらいながら、小さく口の端を上げた。




