20.メイドの素性
「あら、ずいぶん綺麗になったじゃない」
「……す、すみません」
「フロリス、私は今あなたを褒めたんだから、ここはお礼を言うべきでしょう?」
「すみません!」
怯えて頭を下げたままのフロリスに、アリエスは諦めてため息を吐いた。
習性とはなかなか変えられない。
それだけフロリスは謝ってばかりいたのだろう。
アリエスはびくびくしたフロリスの姿がボレックを前にした自分を見ているようで苛々した。
だがそれを顔には出さず――笑顔も見せず、ユッタにお茶を持ってくるように頼んだ。
本来ならフロリスの仕事だが、ユッタは笑顔で引き受け部屋を出ていく。
フロリスはそんなことさえ考えられないのか、ただ部屋の隅に立っていた。
「フロリス、とりあえずそこに座って、髪を乾かしなさい」
「いえ! そんな、座るなど――」
「ずっと立っていられても困るの。早く髪を乾かして、私のために働いてちょうだい」
「あ、は、はい!」
ようやくまともに考えられるようになったのか、フロリスはアリエスの言葉にはっとして、小さな窓辺に置かれた木製の椅子に座った。
それからごしごしと麻布で髪を拭く。
あれでは髪がもつれてしまうだろうと、アリエスは立ち上がって自分のブラシを差し出した。
「それでは髪の毛がもつれてしまうわ。これを使いなさい」
「で、ですが……」
「私の専属になったからには、きちんとしていてほしいの」
「か、かしこまりました」
ブラシを受け取る手は震えていたが、面倒くさいので慰めなどは言わずにアリエスは元の椅子に戻って座った。
その椅子は布張りの少し上等なもので、ユッタがアリエスのために運び入れてくれたものだ。
少々軋むが不都合はないので、アリエスはその背にもたれて髪を梳くフロリスを見つめた。
洗った髪は本来の色を取り戻したらしい。
かすかに灰色がかった茶色は珍しいのだが、アリエスの髪色とよく似ていた。
改めて見ると背格好も似ている。
(これはこれで面白いわね……)
もう少しフロリスに自信をつけさせれば上手く利用できる。
ジークも言っていたように、服装と髪型で人は簡単に騙されるのだ。
それには思い込みも作用しているが、フロリスに化粧を施せばさらに似るだろう。
これからは女官用とメイド用とで化粧も工夫しようとアリエスは考えた。
「あの……」
「ああ、ごめんなさい。少し考え事をしていたせいでぼうっとしてしまったわ」
あまりにじっと見つめていたからか、フロリスが遠慮がちに口を開いた。
アリエスは何でもないというように軽く手を振る。
そこにユッタがお茶を持って戻ってきた。
「ありがとう、ユッタ。次から次に申し訳ないけれど、湯船を綺麗にしておいてくれる? また夕方には使いたいから」
夕食後、一番に湯船を使うのはアリエスだった。
その後で侍女やメイドが順番に湯を浴びる。
ずうずうしいようだが、アリエスが共同の湯船を毎日使うことで、使用人たちも気にせず使うことができるのだ。
そのため、皆がアリエスの湯浴みを歓迎していた。
「かしこまりました」
「それなら私が!」
ユッタがアリエスの言葉に頭を下げて受けると、フロリスは慌てて立ち上がった。
ようやくフロリスは自分が為すべき仕事を思い出したらしい。
だがアリエスは首を横に振って断る。
「フロリス、今のあなたに必要なのは休息よ。明日からはきちんと働いてもらうから、今日はゆっくりしなさい。ユッタもわかってくれてるわ」
「はい。――アリエス様のおっしゃる通りよ」
ユッタはアリエスの言葉にまたにっこり微笑んで、フロリスにも声をかけてから出ていった。
フロリスの代わりに働くことに腹を立てた様子はない。
以前の事件から、ユッタは勝手にアリエスを理想に当てはめて何事も良いように捉えてくれるのだ。
もちろんアリエスは自分がそんな善良な人間ではないこともわかっているし、偽善的でも偽悪的でもなく、欲望のままに過ごしている。
ただ便利なので誤解を正そうとしていないだけだった。
「フロリス、その椅子をこちらに持ってきて、お茶を飲みなさい」
「い、いえ……私は……」
「遠慮はいらないわ。これはあなたのために用意してもらったものだから。あなたにはたくさん訊きたいことがあるから、答えると喉が渇くでしょう?」
アリエスは手際よくポットからカップにお茶を注ぐと、フロリスのほうへと差し出した。
フロリスは観念したように椅子を動かしてテーブルの前に座る。
「さて、それではもう少し話をしたいのだけれど、あなたの紹介者は誰なの?」
「わ、私の……?」
「ええ、この王宮で働くにあたって、紹介状が必要だったはずよ。その紹介状を書いてくれた人は誰なのかしら?」
紹介者と言われてもフロリスはぴんと来なかったようだ。
しかし、アリエスが優しく言い換えると理解したらしい。
ほっとした様子で答える。
「私の紹介状は老侯が……いえ、カスペル前侯爵様が書いてくださいました」
「カスペル前侯爵? あの元宰相の?」
意外な人物の名前にアリエスは驚いた。
カスペル前侯爵は一年ほど前に亡くなったのだが、現国王が在位する前――先代国王の時代から名宰相として国内だけでなく諸外国へも名を馳せていた人物であった。
数年前に引退し、それ以降に宰相の座に就いた者はいない。
息子である現カスペル侯爵も偉大な父の才能を受け継ぐことはできず、今は財務長官の任に就いている。
「……あの、老侯がどのようなお仕事をされていたのかは存じませんが、とてもお優しい方でした」
「そう。あなたはカスペル侯爵のお屋敷で働いていたの?」
「はい。私の母が老侯のお屋敷で侍女として働かせていただいていて、私はそこで生まれたのです」
「……お父様は?」
「父は私が生まれる前に亡くなったそうです。ですが、お屋敷のみんなが――お屋敷といっても王都の外れにあって、老侯が休息を必要とされるときに滞在されていた別邸ですが、そこのみんなが優しくて、私は寂しい思いをすることもありませんでした」
「お母様は?」
「母は数年前に亡くなりました。そのときはとても悲しくて、老侯もすごく慰めてくださって、それから……」
「それから?」
「老侯も体調を崩されて、お仕事を引退されたそうです」
父親がいなかったことにも母親が亡くなったことにも同情を示さず、アリエスは淡々と話を聞いた。
カスペル侯爵家はマーデン王国の中でも名門であり、実はクローヤル伯爵家の遠縁でもあるのだ。
自分の容姿は嫌というほど知っている。
そのため俯き寂しげに語るフロリスの姿をじっくり観察して、アリエスは一つの仮説を立てた。
それはとても面白く、アリエスの興味を引くものだった。




