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19.お風呂

 

「ユッタ、申し訳ないんだけれど、お風呂の用意をしてくれる?」

「今からですか?」

「ええ、そう。他の人にも手伝ってもらってなるべく早くにね」

「かしこまりました」


 いつもはこんな時間から湯浴みなど絶対にしないアリエスの頼みに、ユッタは驚いたようだった。

 それでも頭を下げて了承すると、部屋から出ていく。


 アリエスがほっと息を吐くと同時に、部屋の扉がノックされた。

 応答すれば、おどおどしたフロリスの声。

 入るように促すと、フロリスは汚れた姿のままだった。


「あなた、着替えは?」

「あ、ありません。これ一枚だけです」

「そう……」


 メイド服のまま煙突に入ったらしく、煤だらけで洗っても汚れは落ちそうにない。

 やはり面倒くさい子を押しつけられたなと思いながら、アリエスはじろじろとフロリスを観察した。

 フロリスはその場に立ったままもじもじしている。


「あなたが私の専属メイドになったことは聞いたかしら?」

「は、はい。ロイヤ様から伺いました」

「淑女付きの仕事はしたことあるの?」

「あ、ありません……」

「掃除や洗濯は苦手なようだけど、何か得意なことはあるの?」


 アリエスは怯えたフロリスの態度に苛々しながらも、それを表には出さず問いかけた。

 フロリスは俯いたまま、ぎゅっとスカートを握る。


「さ、裁縫なら少し……」

「それだけ? 他には?」


 フロリスの様子から、他にもまだ何かあるとアリエスは直感した。

 そのため、できるだけ声の調子を和らげる。


「その……えっと……読み書きが……できます」

「文字を読めるだけじゃなくて、書けるの?」

「……はい」

「まあ、すごいじゃない。それなのにただ洗濯だの料理を運ぶだのしていたなんてもったいないわ。洗濯も給仕もできるメイドはたくさんいるけれど、読み書きができるメイドはほとんどいないでしょうに。これはメイド長のミスね」


 おそらくメイド長はわかっていてわざとフロリスを苦手な仕事に配置していたのだろう。

 メイド長の性格が悪いことは有名で、それくらいはしそうに思えた。

 だがアリエスにとって、読み書きができるというのは朗報なのだ。

 資料整理の手伝いをしてもらえるだけでなく、他にも利用価値がある。


 喜ぶアリエスの反応にフロリスは驚いたようだった。

 フロリスがいったいどんな環境で育ったのか興味が湧いてくる。

 女官長としては厄介払いのつもりだったようだが、アリエスには幸運だった。


「ねえ、フロリス。あなたの――」


 紹介者は誰なのかと訊こうとして、再び部屋にノックの音が響いた。

 フロリスはその音にびくりとして身を竦ませる。

 ノックをしたのは予想通りユッタで、アリエスは入室の許可をした。


「――アリエス様、湯あみのご用意が整いました」

「ありがとう、ユッタ。じゃあ、フロリス。あなた、湯を浴びてきなさい」

「アリエス様!?」

「クローヤル女史!?」


 信じられないといった様子で驚く二人に、アリエスはため息を呑み込んだ。

 それから淡々と告げる。


「これから私のメイドとして働いてもらうのに、そんなに汚れていては困るわ。だから一度お湯を浴びて綺麗にしてちょうだい。もちろん髪も洗うのよ。ユッタには申し訳ないんだけど、その間にフロリスに合う制服をまた調達してきてくれないかしら。誰かに何か言われたら、私の名前を出せばいいわ」


 アリエスの言葉を理解するのに二人はわずかに時間を要したようだ。

 しかし、理解すると同時にフロリスはがばりと頭を下げる。


「ありがとうございます! すぐに身を綺麗にしてまいります! ユッタさんもよろしくお願いします!」

「そんなに急がなくていいわよ。夕食まで時間もあるし、せっかくなんだからゆっくりしてきなさい。ただし、その後にはしっかり働いてもらうわ」

「はい!」


 ゆっくりでいいと言ったのに、フロリスは慌てて部屋を出ていく。

 ユッタはその後ろ姿を見送って、アリエスに向き直った。


「アリエス様は本当にお優しい方ですね。フロリスを助けたばかりか、このように寛大な待遇をなされるなんて」

「そうかしら? 私は単に身の回りの世話をしてもらうのに汚れた手で触られたくなかっただけよ。それにあなたに手間をかけたわ」

「手間などではございません。それが私どもの仕事ですから。アリエス様にはもっと手間をかけさせていただきたいほどです」


 アリエスの返答を照れ隠しか謙遜だと思ったようで、ユッタはくすくすと笑った。

 あくまでも本気なのだが、都合よく解釈してくれるならそれでいいかとアリエスは訂正しなかった。

 使用人とは円満な関係を築いているほうがよい。

 それは前回の結婚生活で身に染みていたことだった。

 おかげでアリエスは無一文で放り出されても、故郷に帰ることができたのだ。

 それどころか大切にしていた日記帳を持たせてくれた。


(そういえば、そろそろヤーコフに手紙が届く頃ね……)


 ハリストフ伯爵家の執事であるヤーコフとは、無事に帰郷できたというお礼の手紙を送って以来、文通していた。

 アリエスの名前ではばれたときにヤーコフに申し訳ないので、クローヤル伯爵家の執事のフランクの名前を差出人として借りている。

 前回のヤーコフの手紙の内容から、ボレックの再婚相手がついに妊娠したと知った。

 ハリストフ伯爵未亡人はそれはもう大喜びらしい。


 アリエスとしては嫉妬や羨望などまったくなく、ただただ生まれてくる子が元気でありますようにと祈るだけだった。

 また再婚相手の連れ子に何の害もありませんように、と願っている。

 子供には何の罪もないのだから。

 今、アリエスは比較的自由に過ごしているが、無力だと思うことは多々あった。


(でも無力さを嘆くより、力を手に入れたほうが早いわよね)


 そんな考えにたどり着き、アリエスはぼんやり窓の外を眺めた。

 ユッタは制服を手配すべく、すでに部屋から出ていっている。

 カーテンのない小さな窓からは執務棟が見えた。

 あの棟に自分専用の部屋を構えるのも楽しいかもしれない。

 アリエスは窓に顔を近づけ、執務棟を見つめてほんのわずかに唇の端を上げた。




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