83.アリバイ
カスペル前侯爵夫人との騒動後。
ラリーからは自分のせいで迷惑をかけてしまったとの丁寧な謝罪文が届いた。
そのことさえも大きな噂になり、アリーチェからは内容を訊かれ、アリエスは冷たい視線のみで答えた。
アリーチェは相変わらず空気を読まないが、母親を止めてくれたことは評価している。
「それでぇ、お母様からは何かありました?」
「何かあれば、すでに王宮中の皆が知っていると思うわ」
「確かに~」
ロレンゾからの謝罪の手紙もすでに届いているが、数日経っても夫人からは何もない。
それどころか、夫人は体調不良を理由にカスペル侯爵領地に発ってしまっていた。
もちろん、それもしっかり話題になっている。
前侯爵夫人は社交界での立場を完全に失くしてしまったために逃げ帰ったのだろう、と。
「さて、少し出かけてくるから、殿下のことをお願いするわ」
「また逢引ですか?」
「ええ、そうね」
別室で勉強中のリクハルドには他の女官たちがついているので、アリーチェの出番はまずないだろう。
それでも一応声をかければ、くだらない質問をされたので適当に答える。
予想外の返答だったのか、驚くアリーチェを残して部屋を出ると、アリエスは南庭園の奥へと向かった。
「――お待たせして、すみません」
「いいえ。ここでは退屈しないので大丈夫ですよ」
薬草の前で屈みこんでいたラリーに声をかければ、にこやかな笑顔が返ってくる。
お決まりの社交辞令で返さないところがアリエスは好ましかった。
ラリーは傍に置いていた包みを持って立ち上がると、アリエスに差し出す。
「これがお約束の薬です。服用方法は中に書いた紙を入れておりますので、そちらを参考にしてください」
「ありがとうございます。本当に助かりました。おいくらでしょうか?」
「いえ、お代はいりません。クローヤル女史にはご迷惑をおかけしてしまったので」
包みを受け取ったアリエスが懐から小さな巾着を取り出すと、ラリーが困ったように笑った。
ラリーは本当にいつも笑顔ねと思いながら、アリエスは首を横に振る。
「私はこうしてお薬を手に入れてくださったラリーに感謝こそすれ、迷惑をかけられたとは思っておりません。返事にも書きましたが、カスペル前侯爵夫人のことは、私と夫人、ラリーと夫人の問題は別ですから」
そう言って、アリエスは巾着をラリーに押し付けた。
ラリーは思わずといったように巾着を受け取る。
「お金はいくらあっても困ることはありません。どうぞ受け取ってください」
「しかし……」
「それに、私は誰にも借りを作りたくないんです」
一番の本音をアリエスが口にすれば、ラリーは一瞬ぽかんとして次いで噴き出した。
その笑い声に、二人の様子を窺おうとしていた人たちが目を丸くする。
どうやらアリエスと話していてそんなに笑えることがあるのかと不思議に思っているらしい。
「本当にあなたは面白い方ですね?」
「冗談ではないのですけど」
「ええ、わかっています。それではこれは、楽しい思い出としていただきます」
「……王宮を出られるのですか?」
「はい。お世話になった方への挨拶も終わりましたので」
あの騒動の後、ラリーはすぐにカスペル前侯爵夫人からクビを申し渡されたらしい。
しかし、夫人自身があの場で「ラリーが辞めたいと言っている」とヒステリックに叫んだために、世間を騙すことはできなかった。
ラリーは捨てられたのではなく、夫人を捨てたのだ。と噂されている。
「そうですか……。あなたにもっと薬草についてお話を伺いたかったのですが、残念です」
「そう言っていただけると嬉しいですね。では、代わりにこれを受け取ってください」
ラリーが差し出したのは、アリエスが先日返したばかりの本だった。
当然、アリエスは断りの言葉を口にする。
「そのように貴重な本をいただけません。それに、借りは作りたくないと申したでしょう?」
「大丈夫ですよ。これは貸しではありませんから。迷惑料だとでも思っていてください」
「迷惑など何もありませんわ」
「そうとも言い切れませんよ」
「……わかりました。それでは、さようなら」
「いつかまたお会いできる日を楽しみにしています」
わずかな悶着があったものの結局はアリエスが折れ、二人は別れの挨拶を交わした。
そして、その場で別れる。
アリエスは部屋に戻ると、リクハルドの様子を窺い、何事もないことを確認して自室に入った。
アリエスは用意していた手紙を引き出しから出すと、ラリーから受け取った薬に添えて小包を作った。
そして王宮の手紙や荷物を配達する部署へ直接持っていき、所定の手続きを終えて小包を送る。
その宛先に王宮内はまた大騒ぎになった。
「――噂には事欠かないな」
深夜になってまたふらりと現れたジークは、眠るリクハルドの傍で本を読んでいたアリエスをからかうように言った。
そんなジークに、アリエスは冷ややかな視線を向ける。
「あなた方は暇を持て余しているようですね」
「それで、何を考えて今さらハリストフに手紙を送ったんだ?」
「それを答える必要があります? 個人的なことでしょう?」
不躾なジークの質問に、アリエスは顔をしかめた。
ジークと話すのもかなり久しぶりである。
「俺が個人的に興味があるから、とか?」
にやりと笑うジークの言葉に、アリエスは鼻を鳴らした。
ジークはずうずうしくも椅子に――リクハルドのベッドから一番遠い椅子に腰を下ろす。
そこで目の前のテーブルに置かれた水差しから、壁際の本棚へと視線を移した。
「……最近は薬を作ってないのか?」
「必要ありませんので」
「マンベラスがいるから?」
「もういませんけどね」
「連絡は取るつもりか?」
「まさか」
ジークは隠し部屋への扉を最近は開けていないことに気付いたらしい。
さすがだなとアリエスは感心したが、続いた質問に眉を寄せた。
これはただの雑談などではなく、探られている。
「……薬草を扱えば、どうしても体に匂いが染みつきますから」
「別に、アリエスは臭くないぞ」
「それはどうも」
「それで、マンベラスに薬を用意させるために、匂いを気にしたのか? 素人のアリエスに薬草の匂いがするのは不自然だから? それだけマンベラスは薬に長けているのか? そもそもマンベラスに近づいた理由は? そこまでしてハリストフに薬を送ったのは何のためだ? もう助かりようもないのに?」
矢継ぎ早なジークの質問は個人的なものではない。
適当にかわすことはできないと、アリエスは慎重に答えた。
「……マンベラス医師とは、彼のほうから声をかけられました。薬について詳しいようなので力を借りることにしたまでです。ハリストフには貸しがたくさんあるので、この機会に少しでも回収できればと思っただけですわ」
「アリエスが薬に詳しいことを悟られないようにしてまで、偶然親しくなったマンベラスを利用しようと? で、死の間際にいるハリストフが改心しているかもしれないからと、薬を送って遺言状の書き換えを狙ったと? ――嘘だな」
「どの部分が?」
「全部だろ。どこがなんて、わざわざ訊いて確認するなよ」
「そうですね……。ですが、声をかけられたのは本当です」
「そうか?」
やはり誤魔化しは通用しないらしい。
いつもは軽い調子のジークだが、今は重々しい空気をまとっている。
どこまで正直に話すべきか考えていると、ジークが先に口を開いた。
「先ほど入ったばかりの情報がある」
「何でしょう?」
「カスペル前侯爵夫人が亡くなった」
思わずアリエスは舌打ちした。
カスペル前侯爵夫人はすでに用なしだったはずだ。
それが殺されることで役に立ってしまった。
「死因は?」
「心臓発作らしい」
当然あるべき質問にジークはあっさり答えたが、アリエスの様子を変わらず窺っていることはわかった。
そんなジークに向けて、アリエスは嫌味なほどに微笑んでみせた。
「どうやら私はアリバイに使われたようですね」




