初めての夜
「レイン、入ってもいいかな」
夕食を終え、寝台に入ろうとした頃に、扉からノックとともに声が響いた。ルーク様だ。あの後結局、食事の時間にルーク様は現れなかった。ゼクトさんは、皇宮に上がり仕事をしに行った、と言っていた。忙しい時間の合間を縫って国境まで私を迎えに来てくれたんだと思うと、少し申し訳ない気がしていた。
「レイン?」
「あ、はい!どうぞ!」
手早く髪の毛を手櫛で整えながら、ショールで肩を覆う。扉を開けると、まだ仕事着なのだろう、襟のしっかりと立った黒い衣服に身を包んだルーク様が立っていた。
「お仕事、おつかれさまです。アリサに何か持って来てもらいましょうか」
「いや、いい。」
呼び鈴を手にした私の手首を、すっと掴み制される。
「今日はゆっくり話すこともできなかったから。目の前で寝入ったり、結局仕事で抜けたり。すまない」
真剣な面持ちで、頭上から私に語りかける。頭一つ分以上は身長差があるから、若干首が痛い。
「いいんです。お忙しいのに迎えに来てくれるなんて、私は嬉しかったです。疲れているときに寝るのは人間の本能です。気にしてません」
正直な気持ちを伝える。そう。宰相という立場でありながら、私への気持ちを行動に表してくれるのは、素直に嬉しかった。
ふ、と彼の目が細くなる。同時に頭にポン、と手のひらが乗る。
ーー懐かしい。
この感覚は何だろう。父様に似ているのか、すごく安心する。ルーク様はぽかんとする私にかすかに笑いかけて、くしゃくしゃと撫でる。この扱い、婚約者に対するというよりは、ペットに近くない?
「本当に、レインは可愛い」
「あ、りがとうございます……」
唐突な言葉につい顔が上気する。私と比べて、彼は顔色を変えず飄々としている。
「少し、座って話してもいいかな」
**************
三人掛け用のソファに隣合って座る。馬車の中では向かい合わせだったから、なんとなく距離が近い気がする。ルーク様は両手を組み、前傾して膝に腕を乗せている。まじまじと彼の横顔をみると、鼻が高ければ睫毛も長い、眉目秀麗という言葉が真っ先に頭に浮かぶ。涼しげな目元、その瞳。まるで夜の空に吸い込まれるみたいーー
「馬車での話の続きだが」
現実に引き戻される。
「レインに求婚したのは、政略だとかは全く関係ない、俺個人の感情からだよ」
「個人の感情……」
「うん、実は昔、俺はレインに会ったことがあるんだけれど、本当に小さい頃だ。レインは覚えていないんじゃないかな」
なるほど、そんなに小さい頃なら覚えていないのも無理はないかもしれない。レイン、という愛称もその頃の影響なのかしら。それにしても、ゼクセンの名門貴族と、かたやマリベルシアの弱小貴族にどんな接点があったのだろうという疑問は残る。
「一緒にいた時間はほんの少しだったけど、俺はずっと君のことを覚えていた。マリベルシアでの夜会で成長したレインを見た時は胸が震えた。こんなにも美しく成長したのだと」
次から次へと挨拶に押し寄せてくる人々のせいで、話すことはできなかったけれど、とうっすら苦笑しながら続ける。
そんなに昔から私のことを気にかけていてくれたのに、私はルーク様のことを何も知らなかった。罪悪感が胸を埋め尽くす。どう見たって平凡な容姿の私を美しいと賞してくれるほど、目をかけてくれていたのに。
「……昔のことはいいんだ。だけどできれば、これからは夫婦として、ずっとそばにいてほしいと思っている」
真剣な、どこか熱の籠った眼差しで見つめながら、なかばプロポーズのような台詞を続ける。
「本当は直接家を訪ねて求婚するのが筋だったのだろうけど、すまない」
「……ルーク様は、謝ってばかりです」
「え?」
「すまない、すまないって。気を使い過ぎです。婚礼の話はそれは、最初は戸惑いました。……でも、今日ルーク様に会ってわかりました。あなたの妻になれることは、私にとってすごく幸福なことなんだって」
続けるうちに、なぜか涙が滲んできた。まともな婚姻の一つもない、しかもまるで価値のないような私に、誠実な気持ちで向き合ってくれたことに、只々嬉しさがこみ上げる。涙を隠すように俯く私の顎をくいと持ち上げ、先ほどよりも近い距離で問いかけてくる。
「それは、本心と受け取ってもいいのかな」
一段低い声に、ぴり、と体に電流が走る。
「……はい。喜んで、結婚をお受けします」
私の目尻に溜まった涙粒を長い指で掬い、先ほどよりも喜びを滲ませた笑顔で私に近づき、
「今日は人生最良の日だ」
言いながら、彼の腕の中に抱きしめられた。
「お願いがあるんだけど」
腕の中に収まって約五分、胸の鼓動がいい加減相手に伝わってしまわないかと見当違いの心配をしたころに、突然だった。
「なんでしょう?」
「結婚式の予行練習させてくれないか」
頭の中に疑問符が並んでいるうちに、ちゅ、と唇を奪われた。
え、ちょ、いきなり!?……いやいや、夫婦になるんだもの、これくらいは普通かな。でも待って、よく考えたらファーストキス!?
……なんてことを考えながら、顔面を紅潮させたまま目を白黒させていると、続けざまにキスの嵐が降ってきた。あまりの展開に、失神寸前になるまで、その嵐は続いた。
その後、ルーク様は夜更け前に自室に戻って行ったけれど、今まで恋愛経験ゼロだった私は、その日の夜を眠れずに過ごしましたとさ。
ロリコン?というツッコミは甘んじてお受け致します。




