恋、涙
昨日の夜は泣いて、ひたすら泣いて、深夜に入ると上下の瞼同士がくっついて永遠に離れないんじゃないかと思うほどに腫れあがった。それでも人間の身体はよくできているもので、窓から朝日が射すころには私の瞼も「やや腫れ」くらいには落ち着いた。冷やしたハンカチを目の上に乗せながら仰向けに寝て、それでも涙が溢れてくる様は自分でも滑稽だったと思う。
朝食に備え身なりを整えようと鏡台の前に座ると、鏡の中と眼が合った。平凡な顔。女性らしいラインも乏しく、女性としての魅力は普通以下だ。
初めて私を私として愛してくれる人に出会えたと思ったのに、当の相手に結婚は間違いだったと思われていたなんて。見た目だろうか?中身だろうか?一向に進まない夫婦生活に不満を持っていたのだろうか?
両手で眼を覆い、鏡台に身体を預ける。
ーー私は、ルーク様のことを好きになりかけていたのに。
夜中じゅうこぼれ続けた涙で初めて自覚した。穏やかに沁み入るような優しさに、私はだんだんと恋をしていた。熱烈な愛ではないけれど確かに育まれていたそれは、自覚する前に踏みつけられてしまった。
ルーク様は今をときめく宰相様。言い寄る女性は両手に余るほどだろうに、政略の種にもならない私を花嫁としてわざわざ選んだのは、きっとああやって他の女性と仲良くしてもうるさくしないだろうと踏んだからなのかもしれない。なにしろ私は「キズもの」なのだから。
申し訳程度の胸のふくらみの間を指でなぞると、引き攣れた皮膚が判る。強盗に斬られた際の刀傷はちょうど臍の右横まで達している。伯父様から傷のことは事前に伝えてあるけれど、彼は実際にこの傷を見てはいない。……もしも見られたら、今度こそ愛想を尽かされるかもしれない。
コンコン。
考えがまとまらない内に、部屋にノックの音が響いた。アリサが朝食に呼びに来たのだろう。私は重い腰を上げ、廊下に面したドアに向かった。
ドアを開けた直後、私の顔を見たアリサの表情は筆舌し難いものだった。当然だろう、どう見たって泣き腫らした目にボサボサの髪、おまけに服は昨日と同じ。
「どっ、どうされたんですか!?」
口を噤む私にオロオロとするアリサ。そのまま私を部屋に押し戻し、ドアを閉めた。
「レイニス様、何があったのかお話しくださいませんか」
私の両手を握り、ブラウンの瞳で真っ直ぐに見つめてくる。その真剣さに少し救われた気がして、枯れたと思っていた涙がまた一つ零れた。
結局アリサには詳しいことは話さず、故郷を懐かしんでいたらつい泣いてしまった、と説明した。アリサに対して嘘ばかりな自分に嫌気がさすけれど、本当のことは言えないと思った。アリサは納得していないようだったけれど、それ以上話さなくなった私に笑いかけ、明るく振る舞ってくれた。
そのまま身支度をアリサに手伝ってもらい、遅れて朝食の席に着いた時には、既にルーク様の姿はなかった。ついさっき、仕事に向かったのだという。
ふ、と思わず自嘲する。
ーー当たり前か。
これもいい。ルーク様が、今回の結婚は失敗だったと使用人の皆に明らかにした時には実家に帰る。それまでは、妻として平静を装うと決めた。いっそこれ以上優しくしてくれない方が、かえって傷つくこともない。そうして無理矢理に朝食を詰め込み、心配する屋敷の人たちを適当にあしらいながら私は中庭に向かった。
この中庭は落ち着く。適当なベンチに座り、深呼吸で朝の香りを胸いっぱいに吸い込む。相変わらず見上げる空は晴天だけれど、私の心は今にも雨が降り出しそうな曇天のよう。
「そういえば、お見送りしなかったなぁ」
まだ咲き残りのジャスミンの香りを受けながら独り言ち、気付けば頭を占領していく彼を追い出すように頭を振る。さっきから同じことを何回繰り返しているんだろう。
部屋にいればルーク様との夜を思い出すだろうと屋外に繰り出したけれど、結局どこも同じようだった。あの眼も、声も、手も。偽りだったのだろうか。
思い出す度に胸が締め付けられるように切なくなって、同時にズキン、と痛みが走った。
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その日ルーク様が屋敷に帰って来たのは、めずらしく夕刻のことだった。妻としての義務は果たすと決めたのだからと、自分を奮い立たせて階段を下りた。
玄関で出迎えると、ルーク様は少し驚いたような顔をしてから、私を抱きしめてきた。
ーー今更取り繕わなくても、いいのに。
苦しいけれど、切ないけれど、嬉しい。一日ぶりなのに彼の匂いが懐かしくて、ついルーク様の腰に手を回そうとした、その時。
ルーク様の後ろーー玄関先に、例の壮絶な美女が立っているのが見えた。




