皇宮にて
相変わらずこの宮殿は、見るものを圧倒させる迫力がある。私はレオパルド・ラトリオ・ゼクセニアの紋章が押された手紙を持ち、正門前から宮殿を見上げていた。
五日前に届いたこの手紙。内容を要約すると、「宰相殿の嫁の顔をじっくり見たいから、ちょっとうちまで来い」といった内容だった。しかも、追伸で「宰相自身には絶対に告げずに来ること」とわざわざ書かれていた。さすがに内容に恐ろしくなり、ゼクトさんに相談したところ、私がルーク様の許可なく宮殿を訪れても特に問題ないと言われた。むしろ、ゼクトさんに背中を押された格好になってしまった。
「これも経験です」
なんて、豊かに蓄えられたあご髭を撫でながら言っていたけれど、皇帝に会うのに随分楽観的でなかろうか。やはり年配の人は落ち着きが違うのか。この人もこれで結構お茶目なところがあるようだ。
単身での参内はさすがに不安だったので、当のゼクトさんを伴ってきたけれど、こんなことルーク様が知ったら怒ってしまわないだろうか。
……心配は残るけど、ここまで来たならばと思い切って正門をくぐった。
ルーク様と言えば、初夜(というべきか否かはわからないけれど)の日から、私たちは同じベッドで寝ている。そんな状況にも関わらず、彼は今日まで初夜の時のように迫ってくることはなかった。決まって腕枕をし、私の髪を梳きながらその日にあったできごとなど、他愛もない話をする。私は心地よさにいつの間にか眠ってしまうので、彼がいつ頃寝付いて、いつ頃起きるのかを知らない。仮にも新婚夫婦の夜だというのにこの色気のなさはいささか問題な気もするが、私としては正直助かっている。
今朝も日課となったルーク様のお見送りをしてからこちらの用事に向かった。さすがに、初めみたいにこっそり隠れて見送るのはただの自己満足だと気づいたので、せめて妻らしくと欠かさず玄関で送り出す。少し名残惜しそうにしながら、迎えに来た部下の人と門の向こうへ消えていく彼を見るのが、実は楽しみだったりする。
正門を超えて進んでいくと、警備の衛兵が目に入ってきた。鈍い銀色に輝く甲冑が、威圧感だけでなく城全体の高貴さを演出しているようにも感じられる。足止めを食らうかと思ったけれど、こちらから封蝋の紋章を示すと簡単に城内へ入ることができた。
改めて城内を見渡すと、昔読んだ物語に出てくるような広いホールに、緩やかなカーブを描く長い螺旋階段が左右に一つずつ。遥か上方を見上げると、豪奢なシャンデリアが存在感を放っている。そこかしこに立つ柱は比較的簡素な造りに見えるけれど、近づくと細かな彫刻が施されているのが判る。さすが大陸に名を馳せる技術国だ。よくもこんな所で結婚式をしたなぁと、一週間前の自分の度胸を少し褒めてあげたくなった。
ところで、皇帝陛下直々に招かれたはいいものの、寄越された手紙には時間や場所の指定が一切なかった。ここからどこへ向かえばいいのか。ゼクトさんと顔を見合わせるけれど、彼が詳細を知る訳もない。途方に暮れていると、見覚えのある人がちょうど私たちの数m前を通りかかった。いつもルーク様を家まで迎えに来てる部下の人だ。確か、名前はアクセルさん。鮮やかな空色の髪が特徴的ですぐに目についた。
「あのー……」
こっそり後ろから着いていき、声をかけてみる。後ろを振り返ったアクセルさんは私の姿を認めると、いきなり立ち止まった。勢いで思い切り衝突してしまう。
「わふっ」
痛い。鼻をしたたかにぶつけてしまった。ゼクトさんが後ろで咄嗟に支えてくれたおかげで、公衆の面前でみっともなく転ぶのは免れたけれど。
「ルークさんの嫁さんじゃないか。こんなとこで何してんですか」
この人、役職から言ったらおそらく貴族の出の筈なのに、言葉使いが下町風だ。こちらを見る表情から察するに、私はこの人からあまり好まれていない気がする。というか、少しくらい謝ってくれてもいいじゃない。
「レイニス様は皇帝陛下に用事があって参じられたんですよ」
後ろに控えていたゼクトさんが問いかけに対して代弁してくれた。
「ふーん……陛下が、用事ですか。」
なんとなく疑いの目を向けられた気がしたけれど、気にしないでおくことにする。
アクセルさんは若干訝しげな表情をしつつも、皇帝陛下の執務室までの行き方を簡単に説明してくれた。……のだけど、自慢ではないけれど私は道筋を覚えるのが苦手なので、あいにく途中までしか理解できなかった。ここは素直にゼクトさんに任ておくことにしよう。
アクセルさんと早々に分かれて、皇帝陛下の執務室まで向かう。途中、大きな螺旋階段を登ろうとすると、信じられないことに階段がするすると動き始めた。驚いてゼクトさんに訪ねると、これは城の中に安置されている魔石の力と、緻密な歯車に似たような機関を使った複合技術なんだとか。恐る恐る階段に乗り、手すりに掴まる。少し速度は遅いけれど、これがなかなか快適だった。みる間に階段の最上部まで到達し、タイミングを計ってちょん、と降りる。……慣れるまでは少しだけ怖いかもしれない。
ゼクトさんはというと、私と同じく動く階段に戸惑っていた、おそらく外国の使者の人に付き添って使い方を教えてあげているようだ。いつでもどこでも紳士なのね。さすがです。
初めての経験に興奮しつつゼクトさんを待っていると、遠くから聞き慣れた声がした。
ルーク様だ。
手紙の注意書きを思い出し、咄嗟に物陰に隠れる。なんだかとてつもなく悪いことをしている気分だ。彼はどうやら、廊下で誰かと喋っているようだった。
「だからルーク、……るでしょ。……私たちは……同士なのよ」
ーー相手は女性の声だ。誰だろう、初めて聴く声音だった。
「……まあ、そうとも言えるか」
ルーク様の声がだんだん近づいてきている気がする。まずいわ、逃げないと。柱の陰に目一杯身体を押し込める。
「ところで、あなたのお嫁さんはどうなのよ?」
もしかしなくても、私のことだ。嫌だ、聞かないほうがいい!……思いとは反して、ここで物音を立てるわけにはいかず、両手を握りしめて逃げ出したい自分を制する。
「少し結婚を早まったかもしれない」
ーーーーーーなに、それ。
まるで、思い切り頬を叩かれたような衝撃が襲ってきた。
結婚を、早まったって、そんな。
柱のすぐ横を、二人が通り抜けていく。女性の笑い声が頭に響いてくる。
ふと、握りしめた両手が真っ白に血色を失っているのに気づいて、慌てて脱力させる。
あまりの衝撃に動揺しているうちに、いつの間にか彼らの声は聞こえなくなっていた。
足元も覚束ずにふらふらと柱の陰から出て行くと、先ほどの声の主だろうか、壮絶な美女が向こうから戻って来たようだった。
黄金色の豊かなウェーブに、紅玉を想わせる深紅の瞳。長い睫毛に人形のような肌。驚くほど細い身体は、纏う藤色がよく似合っていた。今まで見たこともないくらいに完璧な、美を象徴したかのような女性に、思わず見とれてしまう。すると、美女とふと目が合ってしまった。
「あら、あなた」
声をかけられるのが早いか、逃げ出すのが早いか。私はふらふらとしつつも、足早にその場を去った。
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あの後、とてもじゃないが陛下のところに行く余裕はなかった。直後にゼクトさんと合流できたけれど、足取りは覚束ない、おまけに顔面蒼白の私を見て、ゼクトさんはとりあえず一旦家に帰りましょう、とエスコートしてくれた。
帰り道に何があったのか聞かれたけれど、どう説明すればいいのかわからずに結局押し黙る私を、ゼクトさんは追求しないでいてくれた。
無事に家に戻った後は部屋にこもり、陽も沈まないうちにベッドに入った。アリサが心配して駆けつけてくれたけれど、理由は月のものと言って早々に下がってもらった。
とにかく一人になりたかった。
夜中になってもルーク様は私の部屋に訪れなかった、アリサが気を回して何か伝えたのか、それとも本当に、私に愛想を尽かしたのか。
どうだってよかった。来ない理由はどうあれ、ルーク様がこの結婚を後悔しているのは確かなのだから。
私だって別に、ルーク様に恋していた訳じゃない。貴族同士の結婚なのだからこういうこともあるのだろう。貴族の結婚なんて取引き同然、割り切ればいい。
ーーそう考えようとしても、ルーク様のことを想うたびにズキンと胸が痛む。
胸の痛みか、悲しみからか。次々に涙がこぼれて、止まりそうになかった。




