束の間の有閑
午前中のうちに厨房、厩屋と次々に回った。実家で働くザボンにも劣らない絶品スープを作るペンネ料理長は、恰幅の良いおばさまだった。ちょうど、私と同じくらいの息子がいるのだという。
「うちの息子も剣ばっかり振ってないで、このくらい可愛らしいお嫁さんを連れてこないもんかねえ!!」
胸を張り大きな声で笑う様子は、ザボンにどこか似ているように感じられて親しみが持てた。彼女のふっくらとした手は、色素の強い食材でも扱ったのか指先がほんのり緑色に染まっていた。ふと思いつき、よければ手伝いましょうか、と言ってみたけれど、
「奥様の手を煩わせる訳にはいきません!」
なんて、案の定大慌てで厨房から追い出された。それにしても「奥様」とは。慣れない呼び名に違和感を覚えるけれど、これからはそう呼ばれていくのだろうか。少し面映い気分になりながら、厨房を後にした。
厩屋ではまだ十歳くらいの男の子が、念入りに馬の毛並みを整えていた。黒い毛並みのがルーク様専用の馬なのだとか。男の子はこの厩屋を管理する使用人の孫で、修行中らしい。そばかすだらけの鼻を恥ずかしげにこすり、太陽みたいな笑顔で
「おれジーク!よろしくな、ねーちゃん!」
と言ってくれた。ちょうどその場に現れたお爺さんに、ものすごい勢いでげんこつをくらい、私が止める間もなくジークは小さな頭を掴まれ、盛大なお辞儀をさせられた。
「そうならそうと早く言えよぉ……」
大きなたんこぶを一つこしらえた彼が涙目になりながら呟いているのを見て、私はごめんね、懲りずに仲良くしてね、と苦笑した。今度からは早めに名乗ることにしよう。
お昼ご飯は、ペンネ料理長が私のリクエストに合わせて作ってくれたオムライスだった。このホワイトソースがたまらなく合うのよね。ザボンが作るものと遜色ない一品を、一口食べては恍惚とする私を見て、そばに控えていたゼクトさんがと穏やかな表情で話しかけてきた。
「大分、こちらに慣れてこられたご様子ですな」
「はい。皆さん優しくて、あったかくて……。とっても過ごしやすいです」
心からの気持ちだ。この屋敷の人々はゼクトさんやアリサを始めとして、皆優しい笑顔で出迎えてくれる。故郷を一人離れて過ごす私には、それがとてもありがたい。
「皆、心底レイニス様を歓迎しているのですよ。何しろ、氷の仮面で有名な主の顔をあれほど蕩けさせる方なのですから」
「私、そんな大層な人間じゃないです」
スプーンを握りながらかぶりを振って否定する。しかし、実際に彼を蕩けさせているかどうかは別として、そうまで言われる私でさえも、彼は表情の変化が少ないと感じる。私の前以外では一体どんな顔をしているというのだろう。
「主はお小さい頃から、ディモア家を継ぐために英才教育を受けておりましたからでしょうか。昔からあまり感情を表にだされないのです」
ゼクトさんは、三分の一ほどになったコップにサーバーで水を注ぎながら、しみじみと続ける。
「レイン様がこちらに来てから、明らかに主は穏やかに笑うことが増えました」
買い被りだと思うけれど、そこまで言われるとさすがに少し顔が熱くなる。ちょっとくらいは自信もっていいだろうか。
「ありがとう」
ゼクトさんにお礼を言い、目の前の皿に向き直る。それからは胸がいっぱいで、せっかくの好物がなかなか喉を通らなかった。時間をかけて完食したオムライスは、お腹だけでなく心も満たしてくれたようだった。
午後はまったりと中庭に出て、花を眺めたりお茶を飲んだりして過ごした。この屋敷は広く、相応の部屋数なのだけれど、入って良いかどうか判らない部屋も多かった。そこで、出入りする必要のある場所を記憶するのみにして、後は中庭に陣取り通りかかる使用人に声をかけるという方法をとることにした。
これ以上広い屋敷を回るのが面倒になったのかと言われれば、否定できない。実際、この方法をとると効率よく皆に挨拶できて、我ながらなかなか良い作戦だと思った。脇の通路を通る人影が途切れれば、庭の花を眺める。日中とあってか頬を撫でる風は暖かく、花々も本格的な春の到来に蕾を綻ばせていた。今頃はちょうどポピーの花が真っ盛りのようで、橙紅や白の花びらが花壇を彩る。角に植えてあるジャスミンの木から漂ってくる豊かな香りが、時々風に乗って鼻をくすぐって、その度についつい緩んだ顔で深呼吸してしまう。
「素敵なお庭ね」
両手を組んで青空に伸ばし、春の陽光を存分に浴びながら、黙々と作業を続けていた庭師のヤンに話しかける。
「すべて大奥様の指示のもとに作っております」
……大奥様ということは、私のお義母様にあたる人だろうか。
「大奥様はこの国の使者として南の国へ出向されているので、今は屋敷におられませんで」
そういえば、馬車の中でゼクトさんがそんなことを言っていたような気がする。他の話題も合わせると余りに情報量が多すぎて、今までお義母様のことはすっかり頭から抜けていた。もしお仕事から帰ってこられたら、新参の嫁として一番に挨拶しなくては。ハーブが混ぜ込まれたクッキーを齧りながら頭の中にメモ書きをする。それにしても、花は好きでも庭作りには全く詳しくない私だけれど、これだけ見事な庭を造るのは至難の業なんじゃないかと思う。きっとセンス溢れる人なのだろう。今度、ルーク様にも聞いてみよう。
いつの間にかクッキーを平らげてしまったので、空になったお皿を厨房まで運んでいると、アリサがお茶のカートを押しながら廊下の反対から歩んでくるのが見えた。
「レイニス様にお手紙が届いてたので、お部屋の机に置いておきましたよ」
持っていたお皿をアリサに回収され所在無くなった私は、結局部屋に戻ることにした。ついでに手紙を早く開封して中身を確認してしまおう。伯父様か、あるいはあちらで仲良くしていたメイドのソエルあたりかしら、などと差出人を想像しながら二階への階段を上っていく。
今日は素敵な出会いが沢山あった。刺激的だけれど、とても充実した一日だった。こちらに来て初めて羽を伸ばせたな、と顧みつつ、自室の机上に置かれた何の変哲もない白い封筒を開封する。中を見ると、質素な封筒に似つかわしくない、仰々しい封蝋が押された三つ折りの手紙が一枚入っていた。
……私の記憶が正しければ、これはこの国の皇帝、レオパルド・ラトリオ・ゼクセニアの紋章ではなかろうか。
前言撤回、刺激が多すぎて追いつけません、父様。
私は天井を見上げ、お空にいるであろう父母にこの身の平穏を祈った。
次回、再び皇宮へ。




