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第1話 聖女の仮面と天使の素顔


 鼓膜を揺らすのは、地鳴りのような歓声。

 視界を埋め尽くすのは、数万のファンが振るケミカルライトの光の海。


 アイドルの聖域。

 その中央で、桐島美玖は一分の隙もない微笑みを浮かべていた。


「――みんな! 今日も最高の景色をありがとう!」


 凛とした声がマイクに乗り、ドームの隅々まで響き渡る。

 流れるような黒髪。切れ長の瞳。

 冬の湖に張る薄氷のように冷ややかで、樹氷のように美しく、触れることすら躊躇わせる絶対的な神々しさ。

 ファンが彼女に贈った称号は『聖女みく』、あるいは『氷の姫』。


 そしてその隣では、太陽のような少女が花が綻ぶような笑顔を振りまいている。


「みんなの愛、ちゃんと届いてるよぉ♡  梨乃も、だーいすきっ!」


 ふわふわの明るい髪をツインテールにし、大きな瞳を潤ませて首をかしげる。

 その一挙手一投足が計算された可愛さで構築された、歩く愛嬌の結晶。

 早乙女梨乃。彼女は『天使りの』と呼ばれ、全人類の妹として君臨していた。


 圧倒的な人気を誇るトップアイドルユニット『みくりの』。

 クールな美貌の美玖と、天真爛漫な梨乃。

 正反対の二人が織りなす完璧なハーモニーは、現代アイドルの到達点とまで称されている。


 ライブの最後、二人が背中合わせになるフォーメーション。

 今や、二人のエンディング・テーマといっていいデビュー曲。

 そのサビの最後のリフレインで、美玖はあえて、ある一言を歌わない。

 ファンにはおなじみの演出。

 暗転する直前、美玖は一瞬だけ、背中の温もりを感じながら唇を動かし、飛ばした一言をつぶやく。


(――愛してる……梨乃)


 それはマイクにも拾われない、ファンにも届かない、二人だけの秘め事。

 直後、梨乃が美玖の手をぎゅっと握り返す。

 それだけで、美玖の胸の奥は甘い熱に侵食されていく。


(ふふっ。今の、ファンには『相棒への熱い信頼』に見えたはず……!)


 美玖は内心で深く頷き、アイドルとしての矜持を胸に、華麗にステージを後にした。


 ***


 ドームの喧騒が遠ざかり、重厚な楽屋のドアが閉まる。

 スタッフたちが「お疲れ様でした!」と口々に言いながら去っていき、部屋には二人だけが残された。


 カチャリ。


 美玖が震える指先で、入り口の鍵を閉める。

 その瞬間だった。


「…………はぁ、もう無理」


 美玖の膝から力が抜け、その場にずるずると座り込んだ。

 完璧なステージングで数秒前まで数万人を熱狂させていた『氷の姫』の面影はどこにもない。

 仮面は粉々に砕け散り、代わりに現れたのは、恋人に焦がれる一人の少女、二十一歳の桐島美玖だ。


「梨乃……梨乃、こっちに来て……補給、させて……」

「はいはい。お疲れ様、美玖先輩♡」


 声色が一変する。

 さっきまでの猫なで声ではない。少し低く、落ち着いた、それでいて年上の恋人を愛おしそうに揶揄うような響き。


 梨乃がゆっくりと歩み寄り、座り込む美玖の前に膝をつく。

 そして、彼女の美しい頬を両手で優しく包み込んだ。


「今日のライブ、美玖先輩の視線がすっごく熱かったよ? 最後の曲、ファンのみんなじゃなくて私ばっかり見てたでしょ」

「っ……! そ、それは……営業、よ。完璧なビジネスパートナーとして、梨乃を輝かせようとしただけで……」

「ふーん? 瞳孔、かっ開いてたけど?」

「…………うぅ」


 図星を突かれ、美玖は顔を赤らめる。

 梨乃はそんな彼女の反応を心底楽しむように、くすくすと喉を鳴らした。

 ステージの上では美玖がリーダーで、梨乃がフォロワー。

 しかし、この密室では、梨乃こそが美玖の心を意のままに操る、絶対的な捕食者だった。


「美玖先輩。隠蔽工作も大事だけど、今は二人っきりだよ?」

「……わかってるわよ。でも……誰に見られているかわからないから……」

「鍵、閉めたでしょ? 誰も入ってこないよ。ねえ……ご褒美、欲しくないの?」


 梨乃の顔が、ゆっくりと近づいてくる。

 ステージの熱で上気した肌。シャンプーと、彼女自身の体温が混ざり合った甘い香りが、美玖の理性を麻痺させる。


「……欲しい。梨乃が……欲しい」

「よくできました♡」


 美玖が吸い寄せられるように目を閉じ、梨乃の唇を求めた、その時。


 ドンドンドン!


 激しいノックの音が、二人を引き裂いた。


「桐島さん、早乙女さん! 佐々木です、入りますよ!」


 マネージャー、佐々木恵の声だ。

 二人は電撃に打たれたように飛び離れた。

 美玖は慌てて立ち上がり、手近にあったミネラルウォーターを猛烈な勢いで飲み始める。梨乃は何食わぬ顔でソファに座り、アイドル雑誌を広げた。


 わずか三秒の偽装工作。

 ガチャリ、とドアが開き、佐々木が血相を変えて室内へ入ってくる。その手には胃薬の瓶が握られていた。


「二人とも、お疲れ様! 今日のステージ……特に最後の曲! 何あのアイコンタクト! 0.5秒長かったわよ! SNSが『もはや結婚会見』って大騒ぎじゃない!」


 佐々木はタブレットを突き出しながら、眉間を指で押さえた。胃のあたりをさすり、深くため息をつく。


「あ、ありがとうございます……! 完璧な『営業』として、計算通りですわ」


 美玖は再び『氷の姫』の仮面を被り、凛とした声で答えた。


「そうだよ、恵さん! 私たち、プロだもん。ファンが喜ぶツボを完璧に突いて、営業百合を極めてるんだからっ♡」


 梨乃もまた、愛くるしい『天使』の笑みを浮かべる。


「営業……? ええ、そうね。営業よね。営業だと思わないと私の胃が持たないわ」


 佐々木は心の中で絶叫していた。


((鍵を閉めたって、隙間から漏れてるのよ、二人の甘ったるいオーラが! さっきだってドアを開ける直前、美玖さんのリップが不自然に乱れてたの、私は見逃してないわよ!))


 佐々木恵は、この二人が「ガチ」であることを知っている。

 知った上で、彼女たちのアイドル人生を守るため、スキャンダルを未然に防ぎ、周囲への言い訳を考え、日々胃に穴を開けながら奔走しているのだ。


「二人とも。次は移動車が下で待ってるわ。写真誌もファンも張り付いてるから、車内でも絶対に『距離感』を間違えないこと。わかった?」

「もちろんですわ。完璧に隠してみせます」

「バレるわけないじゃーん! 恵さんは心配しすぎだよ♡」


 自信満々に頷く二人。

 佐々木は再び胃薬を一口流し込み、泣きたいのを堪えて笑顔を作った。


「そうね……あなたたちの『完璧な隠蔽』、期待してるわよ」


 マネージャーが部屋を出ていくと、二人は顔を見合わせてガッツポーズをした。


「ふふ、梨乃。恵さんも私たちの演技力に感心していたわね」

「だね! 完璧に騙せちゃってるよ。私たち、本当の恋人同士だってこと、世界中で二人だけの秘密なんだもんね♡」


 一方、廊下では。


「(どこが完璧なのよ……! スタッフの間じゃ『今日も楽屋の鍵が閉まったぞ』って自主的に人払いされてるんだから……! みんながどれだけ必死にガードしてると思ってるのよ……!)」


 佐々木恵は、スマホでトレンドを確認する。

 ハッシュタグ「#みくりの結婚しろ」は、今日も不動の1位だった。


 本人たちだけが「完璧に隠せている」と信じ込んでいる、糖度120%の勘違い隠蔽ラブコメ。

 今日も、そして明日も、二人の危うい「秘密」を守るために、マネージャーの胃痛は止まらない。


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