36:薬指の約束・1
その日の飲み会の話題は、りょうの異動についてだった。
いつもは下座に座っているりょうが上座と下座の中間あたりに座って、みんなからの質問に答えている。
それを聞きながらお酒を飲んでいると、とんとんっと背中を叩かれる。
「煙草行くか?」
「あ。はい」
誘われるまま石川さんと肩を並べてお店の外に出る。
灰皿の傍で壁に背を寄りかからせ、石川さんが煙草に火を灯す。
「信田さんは」
「ああ。課長と話し込んでた」
普段飲み会の最中で煙草を吸う時には必ずといって良いほど一緒に来る信田さんがいないので聞くと、そんな答えが返ってきた。
そういえば上座で課長と信田さんが二人で話してたかも。
何となくその光景を思い出して納得する。
「吸わねえの?」
「え? あ。吸います」
最近吸う本数がかなり減っている煙草だけれど、飲み会の時には必然的に本数が増えてしまう。
結局そんなに煙草が好きなわけじゃなくって、習慣で吸っているだけなんだろうな。
家にいる時は殆ど吸わないし、りょうと出かけた時もあんまり吸わないし、会社で休憩する口実にしている程度だから、りょうが異動になったら止めようかな、煙草。
煙草の先からたなびくように上がっていく煙を眺めるだけで、ぼーっとしていると、ぽんっと頭を撫でられる。
「大丈夫か?」
「ああ、はい。大丈夫です」
「あんまり飲んだり食べたりもしてないし、今もなんかぼーっとしてるし、体調でも悪いのか?」
「いえいえ。そんな事無いですよ。お昼、調子に乗って大盛りのパスタにしちゃたのでまだお腹空いてないだけですから」
事実を述べたのに、石川さんの顔が曇る。
吸っていた煙草を灰皿に押し付け、はーっと石川さんが溜息を吐き出す。
「……いいのかよ」
何を言われたのかわからなくて首を傾げる。
何がいいんだろうか。
わたしに伝わっていない事がわかったのだろう。石川さんがもう一本煙草に火を点ける。店内に戻らずに説明してくれるのだろう。
「今野の異動」
「ああ。その事ですか」
今日何人にも同じような事を聞かれた。
だからみんなに答えたのと同じように答える。
「人事で決まった事ですから、どうしようもないですよね」
何を言ったって覆らない事は内示の時点でわかっている。今日この日が来る事も知っていた。
だから出来る限りあっさりと答える。
野村さんには「……正論ですけれど」と田島さんには「何でそう達観しちゃうかな」と信田さんには「何かあれば聞くから」と言われたけれど。
「お前はそれでいいのかよ」
石川さんの低い声がいつもよりも低く押し殺したような声音で聞こえる。
けれど、答えられることは変わらない。
「いいも悪いも、人事にわたしは口出し出来ませんから」
「そうじゃねえよっ」
突然大きな声を出した石川さんと目が合う。
怒っている? どうして?
「その程度なのかよっ。お前らは『ああそうですか』ってあっさり受け入れられるのかよ」
「はい?」
何に怒っていて、どうしてそんなことを言われるのかさっぱりわからない。
一体石川さんは何を怒っているのだろう。
「何で平気な顔してへらへら笑ってんだよっ。お前の気持ちはその程度なのかよっ」
カチンときた。
瞬間的に頭に血が上ったのがわかる。
けれどイライラをぶつけても仕方が無いので、溜息を一つ吐き出す。
「へらへらはしてませんよ。変えようの無い事実を前にジタバタしても仕方が無いので受け止めているだけです」
ぎゅっと煙草を灰皿に押し付け、それで会話は終わりだと暗に石川さんに告げる。
が、手首を掴まれて店内に戻る事が出来ない。
「じゃあ何で泣きそうな顔してんだよ。何で辛そうな顔してんだよ」
「してませんっ。グループ会社とはいえ、本来希望している部署に異動できるんですっ。良い事じゃないですか」
「お前は馬鹿かっ」
言い返そうと開いた口が言葉を紡ぐことは無く、石川さんの腕の中に抱き込まれる。
「淋しいなら淋しいと言えばいいだろ。悲しいなら悲しいって泣けばいいだろ。何強がってんだよ。馬鹿」
「強がってないから離してください」
身を捩るのに、石川さんはびくともしない。
りょうとは全く違う香りがする。いつか沙紀ちゃんが「エゴイストって石川さんそのまんまだよね」と言っていた香り。
優しくて気の回る社員さんで、頼りにもしているけれど、こんな風にされるのには抵抗がある。
「離してくださいっ」
けれど背に回る手は緩む事が無く、かえって腕に力が篭る。
「今野は淋しいとさえ言わせてくれないわけ? ゆうが意地を張り続けなきゃいけないくらいに」
「そんなことはありませんっ。ちゃんと聞いてくれます。大丈夫ですから離してくださいっ」
ぼんぼん石川さんの胸や腕を叩くけれど、何も状況が変わらなくて焦ってくる。
こんなところをりょうに見られでもしたらと思うと、焦りと怒りが湧き上がってくる。
睨み付けるように石川さんを見上げると、真っ直ぐに見下ろしてくる視線と視線がぶつかる。
「……俺にしとけば?」
ドキっと胸が音を立てた。
普段は見せないような真摯な表情に心を打たれたのかもしれない。
一瞬互いの時間が止まったかのように見つめあったけれど、ふいっと目を逸らす。
「俺だったらずっと傍にいてやれるし、お前に淋しい思いなんてさせない」
追い討ちを掛けるかのように言った言葉はどこまで本気なのだろう。
けれど。答えは一つしかない。
「石川さん。離してください」
声が震えている。けれど出来うる限り毅然とした態度で、腕を突っ張って石川さんから体を離す。
背に回されていた腕の力はやんわりと抜け、その腕の中から解放される。
「わたしは、たとえ離れていても彼以外の人を好きになる事はありません」
石川さんから向けられた好意は嬉しいけれども、決して受け取ることは出来ない。
「だから、ごめんなさい」
「ばーか。泣きたくなったりしたら頼って来いって話だ。大げさに取るな」
言いながらくしゃっと頭を撫でた石川さんの顔には苦笑が浮かんでいる。
本当にそういう意味だとは思えなかった。
誤魔化すように笑うけれど、石川さんは本当に……。
「お前の彼氏は本当に嫉妬深いな」
笑いながら離れていく石川さんを振り返ると、お店の扉の向こう側の少し離れたところで、不機嫌そうな顔をしたりょうが腕組みして壁に寄りかかって立っている。
一体いつからそこにいたのだろう。
入口には背を向けていたから全くわからなかった。
ぽんぽんっとりょうの肩を叩いた石川さんの手を振り払うようにして一言二言会話を交わしてから、りょうがわたしのところへやってくる。
と、思ったらいきなりぎゅーっと抱きしめられる。
「ど。ど。ど。どうしたの?」
「優実は俺の」
「いや、あのね。そうなんだけれど、えっと……」
拗ねたような声と、まるで子供が親に縋るような様子が常とは違って、どうしたらいいのだろう。
どうしたらいいのかわからないけれど、とりあえずりょうの背に手を回して、とんとんとリズミカルに背を叩く。
泣いたりした時にしてくれるのだけれど、されると心地いいし気持ちが落ち着くからと思って、りょうにも同じようにしてみる。
「優実」
「なぁに?」
問いかけたけれど答えは返ってこなかった。
その代わり、りょうがわたしの首元に顔を埋める。
「俺、超嫉妬深いって言われてもいいから、優実を束縛したい」
束縛したいのは不安だからだと、前にりょうが言っていた。今りょうは、何に不安を感じているのだろう。
「俺がいない時は飲み会行かないでって言ったら嫌?」
きっと不安になったのは、さっきの光景を目にしたからだろう。
何も聞かないけれど、きっとりょうの中の不安の種を揺り起こすには十二分すぎる材料だったんだろう。
わたしが逆の立場だったら、ものすごく不安になるし、非が無くても詰ってしまうかもしれない。
「嫌なんて言わないよ。今日だってりょうがいなかったら来なかったよ」
なるべく不安を埋められるように穏やかに、気にしていないのだと伝えるために笑みを浮かべて告げる。
「前にも言ったじゃない。わたし束縛して欲しいとか思っちゃってるお馬鹿さんだって」
おどけていったわたしに、りょうがくすりと笑みを漏らす。
「束縛の糸でぐるぐるに縛って欲しいだっけ?」
「……そんな事言った?」
頬を撫でながら言ったりょうに聞き返すと、りょうは「さあ?」と言ってわたしを腕の中から解放する。
でも確かに似たようなことは言った。シンの話をした時に。
「いいよ。ぐるぐるに縛っても」
煙草に火をつけようとしたりょうの横顔に語りかける。
一端その手を止め、りょうがわたしに向けて苦笑する。
「しないよ。そんな事」
「どうして?」
「優実に俺のこと信じてって言ったんだから、俺は優実を信じる。だから縛らない。縛らなくてもどこにも行かないでしょ、優実は」
「うんっ!」
心からの笑みが零れ落ちる。
わたしはどこにもいかない。例え何百キロと離れたところにいても、りょうから離れることは無い。
りょうも多分同じように思ってくれているんだろう。
「……今すぐキスしたい」
ぼそりと呟いたりょうの言葉に頬が赤くなるけれど、りょうは笑みを漏らしてわたしの髪を撫でるに留める。
「相変わらずお前らラブラブだよなあ」
唐突に背後から聞こえてきた煙草を吸いにきた社員さんの言葉にびくっと肩を揺らすのを、りょうと社員さんが声を上げて笑った。
キスなんてしてたら何を言われたか……。
多分こっちに社員さんがくる姿が見えたから、りょうはキスしなかったんだろう。ああ、良かった。




