33:奔流・5
「どう、して」
自分の声なのに、耳鳴りのせいでやけに遠くから聞こえた気がする。
震える声は、大きいのか小さいのかすらわからない。
連れていかないってどうして?
好きって嘘?
りょうもシンみたいに私を捨てるの。そんなのは嫌だ。
悲しすぎる想像に、全身に震えが走る。
「本当、は、きら、いに、なった? それとも、他にすきな」
「違うっ」
背中に回った腕がわたしとりょうの間の隙間を埋める。
ぎゅーっと抱きしめてくる感触も、シャンプーの香りも、肌から伝わってくる熱も現実なのだと訴えかけてくる。
これは夢なんかじゃないんだと。
「優実しか好きじゃない。これからどんな事があっても、優実以外の人を好きになるなんて有り得ない。俺には優実しかいない」
切羽詰ったようなりょうの雰囲気に、おそるおそる顔を上げる。
「愛しているんだ。優実のことを」
視線が合うと、きっぱりと告げられる。
「愛しているから、大切だから、関西には連れて行かない」
いつもよりもずっと感情的な声から、それが真実なのだと伝わってくる。
だけれどどうしても、好きだから愛しているから連れて行かないというのがわからない。
どういう理屈でそうなるのかわからない。
わたしはただ、りょうの傍にいたいのに。
「……俺だって傍にいたいよ」
まるでわたしの心中を慮ったかのようなタイミングで告げたりょうの表情は暗い。
「今日みたいなことがあった時、傍にいなければ何も出来ない。何も出来なくなるってわかっているのに離れるのは辛い」
「りょう」
ぎりっとりょうが奥歯を噛み締める。
わたしの背中を抱いていた指先に力が篭る。
「こっちの本社だと思っていたから、職場が離れたとしても優実と離れて暮らすことにはならないと思っていたから……」
飲み込んだ言葉は聞かなくても、沈痛な思いは伝わってくる。
ずっと同じ職場で働き続けることは出来ないのだとわかっていた。
派遣で続けていたとしても、契約社員になったとしても、わたしの職場は今の支社から変わらない。
けれど社員であるりょうには異動は付き物で、ずっと同じ職場にい続けることなんて出来ない。
前の課長にりょうの異動について聞いた時から、職場が離れる事に関しては覚悟をしていた。
けれどまさか一緒に住むことさえ叶わないような遠方になるなんて思ってもみなかった。
ふうっとりょうが溜息を吐き出した。
まるで泣き笑いのような表情に、胸が痛くなる。
「格好つけないで、最初に本音を言うよ。本当は優実と離れたくない」
「うん」
ストレートな言葉に、胸が温かくなる。自然と震えは止まっている。
同じ気持ちを持っていてくれて良かった。
「職場が離れるのはある程度想定の範囲内だったけれど、まさかこんな事になるなんて思ってもみなかった。だから内示を聞いた後、最初はどうやって優実を連れて行こうかって考えたよ」
本当に良かった。
あっさりと置いていく決断をしたのかと思ってしまったから。
ほっとして肩の力が抜けるのと同時に、りょうの頭がわたしの肩に乗っかった。
重さを感じさせない程度に気を遣ってくれているのだけれど、らしからぬ行動にりょうの心もわたしと同じように動揺しているのだろうと思う。
「けどさ、優実の派遣契約は九月末まであるよね。それを優実の性格から考えたら放り出しては行けないよね」
「……かもしれない」
それを即肯定することは出来なかった。
けれど、言われてみればそうだ。契約が九月末まである。
りょうが異動で関西に行くからといって、四担と五担の担当の仕事を全部放り出して契約前に辞める事なんて出来ない。辞めるにしてもきちんと引継ぎをしなくてはいけない。
それに、今から代わりの派遣さんを探したとしてもりょうが関西に行く時期までに新しい人を探したり引き継いだりなんて無理だ。
「優実のせいにしたいんじゃないよ。優実がそういう性格なのはちゃんとわかっている。そういう優実だから俺は好きなんだし」
「うん」
喉がこみ上げてくる涙で詰まる。
中途半端に投げ出す事も出来ないわたしの性格を見抜いた上で、先回りをして「連れて行かない」と言ってくれたんだ。
連れて行きたいと言われても、恐らく仕事の事を考えて「行く」とは言えないわたしの事を考えて。
「それと、優実の人生を背負うのが嫌で一緒に来て欲しいって言えないわけじゃないよ」
「どういう意味?」
肩から顔を上げて、りょうがわたしの目を見つめる。
「この場面で俺が優実に、仕事を辞めて結婚して一緒に関西に着いてきて欲しいって言うのが愛情だとは思えなかったんだ」
「どうして?」
「優実は仕事好きでしょ。それに仕事で評価されて契約社員になるっていうところの一歩手前まで来ている。そういう全てを捨てさせたくなかったんだ。優実を俺の人生の付属品にはしたくない」
「付属品?」
「そう。優実の人生は優実のものだ。俺はそれを搾取したくない。なんて言えば上手く伝わるかな……」
考え事をするために視線を外したりょうのルームウェアに触れる。
わたしの涙をいっぱい吸い込んでいるそれを見ながら思う。
りょうは人事異動の内示をいつ受けたんだろう。
今この話をするまでにどれだけ考えてくれたんだろう。
それなのにわたしは「一緒にいたい」っていうところから動けず、本当にどうしたらいいのかなんて考えてもいなかった。
ただ傍にいられなくなるのが嫌。一緒に暮らすのが嫌って事しか考えてなかった。
りょうが言う「人生の付属品」とか「搾取する」っていうのはどういう事なんだろう。
「それは、わたしが専業主婦になるのが嫌って事?」
ぱっと思い浮かんだことを聞くと、きょとんとした顔をしてからりょうが頬を緩める。
「そんなことは無いよ。専業主婦になりたいならそれでもいいけど、折角のパソコンのスキルやビジネスマナーを生かす機会が無くなるのは勿体無いなと思うから、今の仕事を辞めなくてもいいんじゃないのかな」
「じゃあ関西に行って派遣で働くから」
くすりとりょうが笑う。
「一緒にいたいと思ってくれてるのはすごく嬉しいよ。だけど俺はこっちに戻ってくるよ、数年以内に。出来れば一年で。その度に優実は仕事を変える? こっちに戻ってきた時に、中途半端な形で辞めた派遣さんを会社はもう一度雇う?」
「無理だと思う」
「それに、今回と同じで異動は突然通達がくる。優実が向こうで派遣で働くとすると、派遣期間の途中で俺だけこっちに戻って来る事になるけれどそれでいいの?」
「……それは」
一人で知り合いもいない関西に残ってりょうもいなくなったらって考えると、ぞくりと背筋に寒気が走る。
「あまり現実的ではない選択だよね」
優実、と名を呼びながらりょうがわたしの髪を撫でる。
その声はいつもどおりの優しい声。
「ちゃんとこっちに戻ってくる。それにずっと会わない訳じゃない。マメに優実のところに帰って来るよ。毎日電話だってする」
「うん」
涙の堤防は決壊寸前で、りょうがその指先で閉じた瞳を撫でた瞬間に涙が溢れ出す。
「契約社員、なりたいんだよね?」
課長に半年は様子を見させて欲しいと言われた時、りょうに零した。契約になれなくてちょっと残念かもって。
償いではなくちゃんと認められて契約社員になりたいから、これからもっと頑張るって言った。
確かに言ったけれど……。
ぽすっとりょうの胸を叩く。
言葉にならないもどかしさを抱えたまま、何度も何度もりょうの胸を叩く。
「優実」
「ばかぁあああああああ」
子供みたいに泣き出したわたしをりょうの頭を撫でる。
叩かれるのをそのままに、ただ頭を撫でてくれる。
泣きじゃくりながら見上げたりょうと目が合う。
りょうもまた、泣きそうな顔をしている。
でも、傷つけるってわかっていても止められない。
「何で、何で」
「ん?」
「りょうよりも大切なものなんて何も無いのにっ」
「優実」
「どうして一緒にいようって言ってくれないの? どうして一緒じゃダメなの? どうして契約にならなきゃいけないの? 一緒にいたい。一緒にいたい。一緒にいたいよぉ」
「……っ」
ぎゅーっとりょうの腕の中に抱き込まれる。
ほんの僅かな間に見えたりょうの顔は、とても悲しそうに見えた。
それがまた涙を誘う。
困らせてるってわかっている。けれど言いたいことを全部飲み込むなんて出来なかった。
りょうがちゃんとわたしの事を考えて「連れて行かない」という結論を出した事もわかっている。
恐らくそれが最善の手段であるという事も。
だけれど、零れ落ちる感情は止められない。
「いやだよ。りょうがいないのなんて、いやだよ」
背中に回されたりょうの腕の力が強くなる。
「いなくなったりしない、優実を手放したりしない」
「でもっ。置いていくじゃないっ」
泣きながら叫ぶように言った言葉に、りょうが傷ついたような顔をした。
その表情に、一気に頭が冷える。
「……ごめんなさい」
ちゃんと考えてくれているのに、こんな事言ったりして。
なのにりょうは首を横に振った。
「わかってるの。本当はりょうが言う事が最善だって。でも離れたら淋しい。傍に居られなくなったら辛い」
「うん」
「ちゃんと電話してくれる?」
「するよ。毎日」
「たまには帰ってきてくれる?」
「当然。出来る限り帰って来る」
「別れるって言わない?」
「言うわけが無い。寧ろこれを期に結納しようかと思ってたんだけれど」
考えても見なかったことを言われて、頭が真っ白になる。
ぱちくりと目を瞬くわたしの頬をりょうが撫でる。
ああ。何でこんな時に黒いほうの笑みが……。
「何もしないで優実を置いていくわけがないでしょ」
涙を掬い取った指先をぺろっと舌で舐めたりょうは、これでもかっていうくらい何かを企んでいる。
「ありとあらゆる布石は打っておかないとね」
何を? 結納のこと?




