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Papagena  作者: 来生尚
続編:Long Island Iced Tea
58/99

23:束縛の糸・3

『体調どう? これ聞いたら電話して。業務時間とか気にしなくていいから。……また後で電話する』


 携帯の留守番電話のメッセージを聞いたけれど、電話する気は起きなかった。

 体調不良という理由で会社を休んで、ベッドの上で布団を頭から被ってごろごろしている。

 起きる気すら無く、かといってテレビを見る気にもならず、何かを食べる気にもならず、ただただあの頃のように何もせずに転がっている。

 休む連絡をした時に村田さんが連休の合間で暇だからゆっくりしろって言ってくれたから、どうせだったら明日も休んでしまおうか。

 そのほうがいいかもしれない。

 今は会社に行っても仕事にすらならないかもしれない。

 それに、稜也くんの顔を見たくない。

 裏切られるかもしれないと思ったら怖くなってしまった。

 失うのが怖くて、話すことも傍にいることも怖い。

 何かの瞬間にわたしに愛想が尽きるかもしれない。何もしなければ、このままでいられるかもしれない。

 いっそシンみたいに束縛の糸でぐるぐるに縛り付けてくれたら、こんな風に怖くならないのかもしれない。

 けど、そこまでする価値も、わたしには無いんだろう。

 だから自由にさせてくれる。誰と出かけようと、誰と食事をしようとも、稜也くんは怒ったりしない。出かけている最中に帰って来いなんて言わない。

 そもそも、わたしなんかに拘らなくても、稜也くんは女の人には不自由しないはずだ。

 荒木さんだって内藤さんだって、わたしの知らないところでだって、きっと稜也くんは好意を向けられている事だろう。

 わたしよりもずっと素敵な人のほうが多いんだから、捨てられないほうがおかしい。

 結婚する? なんて聞いてくれたけれど、それも一時の気の迷いかもしれない。

 ヒロトが結婚する気があるのかなんて聞いたから、それにあわせて言ってくれただけに違いない。

 わたしには、何の価値も無い。

 涙が乾く事は無く、止め処なく流れ落ちていく。

 案外涙って枯れないものなんだな……。



 指先が頬に触れる。

 いつの間にか寝てしまっていたみたいだ。

 うっすら目を開くと、目の前には稜也くんの顔がある。

 ぱちぱちと目を瞬くと、残っていた涙が頬を零れ落ちていく。

 稜也くんの指先がその涙を掬い取っていく。

「大丈夫? どこか痛い?」

 よく見るとスーツのままで、床にしゃがみこんでわたしを覗き込んでいる。

 その目は本当に心配そうにわたしを見つめている。

「だいじょうぶ」

 体を起こして部屋の中の光景に違和感を感じる。

 まだ昼間だ。外が明るい。

「稜也くん、仕事は?」

「半休取った」

 稜也くんが座った分だけ、ベッドがぎしっと軋む音を立てる。

 横に座った稜也くんは、頬を撫でて髪を撫でる。

「心配したよ。休むなんて聞いてないし、全然連絡取れないし」

 ぎゅっと腕の中に引き込まれた瞬間、再び涙が溢れてくる。

 愛しい。失いたくない。

 この声も、腕も、鼓動も。全部全部手放したくない。

 どうして会わないでいたらなんて思えたんだろう。どうして声を聞かないでいたらなんて思えたんだろう。

 本当は会いたくて仕方なかった。声が聞きたくて仕方なかった。

 何かを紡ごうとしても、嗚咽になって言葉が出てこない。

 もしも。もしも。もしも。

 たくさんの暗い記憶から連想される「もしも」がわたしを苦しめる。

 泣きじゃくるわたしに稜也くんは何も言わず、ただ抱きしめていてくれる。ずっとここにいられたらいいのに。

 ずっと、ずっとこうしていられたら……。


 枯れ果てるのでは無いかと思うほど長い間泣き、ようやく稜也くんの胸の中から体を起こす。

 見上げた稜也くんの顔は暗く沈み込んでいる。

「何があった?」

 普段は聞くことが無いような低い声で問われ、びくっと体が動く。

 視線を合わせると、ふっと口元を歪めるかのように笑顔を作ろうとするけれど、稜也くんの顔はいつものような笑顔にはならなかった。

 わたしの背に回されていた腕が解け、右手でわたしの左腕を掴む。

 ぎゅっと掴まれたにも関わらず決して痛くない程度の力加減で、けれどその手から逃げることは出来ないような強さで、咄嗟に引こうとした腕はそのまま稜也くんに捕らわれる。

「悪いけど、逃がさないよ」

 黒い笑みが稜也くんに浮かび、背中にぞくりと冷たいものが流れる。

 怒っているのだと、今になって認識した。

「もう一度聞くよ。何があったのかな。昨日俺が帰った後に」

 答えにくいことでも答えずにはいられないような迫力があって、けれど変な事を言って嫌われたくなくて口ごもってしまう。

 何か言わなきゃと思うのに、何も言葉が出てこない。

「答えられない?」

 そんな事無いとも、そうだとも言えず、稜也くんを見つめ返す。

 稜也くんの視線と一度絡んだ視線は、決して外す事は出来ない。彼がそれを望んでいない。少し逸らしても確実に視線が捉えらえる。

「答えたくない?」

 しばらくの沈黙の後に問われ、ゆっくりと唇を開く。

「わからない」

 何を言えばいいのか。何を言ってはいけないのか。今どうしたらいいのか。何もかもがわからない。

「わからない? 何かがあったわけじゃないの?」

「……何も、無い」

「本当に?」

「本当に。ただ夢を見ただけなの」

 そう言うと、稜也くんの顔が強張った。

 眉間に深い皺を刻み、わたしの腕を掴む力が少し強くなる。

「それは寝て見る夢の事を言っているの? それとも夢のような出来事があったっていう意味?」

 言い方から稜也くんが後者だと思っているのだと伝わってくるので、慌てて首を横に振る。

「嫌な夢を見たの。明け方に。それで、気持ち悪くなって吐いちゃって」

 慌てて言い募ると、ほっと稜也くんが息を吐き、纏っていた空気が柔らかくなる。

 手を握っているのと反対の手が、わたしの髪を撫でていく。

「もう気持ち悪くない?」

「今は大丈夫」

「良かった。よっぽど嫌な夢だったんだね」

「……うん」

 嫌な夢だった。もう二度と見ないと思っていた夢。どうして今になってそんな夢を見たんだろう。

 何か夢を見るきっかけになったような事、あったかなあ。

 昨日はバーベキューに行って、その後稜也くんが家に来てご飯食べて。ただそれだけなのに。

 ただそれだけなのに。

 胸に渦巻いている不安は消えそうに無い。

 怖くなって、繋がっているほうの腕も、そうでない腕も稜也くんへと伸ばす。

 伸ばして稜也くんに抱きつくと、わたしの背中に再び稜也くんの腕が回される。

 ぎゅっと抱き合うと、いつもなら不安がどこかへと消えていくのに、今は置き火のように燻り続けている。

「どこにもいかないで」

 わたしの言った言葉に、稜也くんがぐっと腕の力を強くする。

「いかない。それにどこかへ行かせるつもりもないよ」

 考えてもいなかった言葉に、お互いの体の間に空間を作って稜也くんの顔を見る。

「あんまり束縛とかしたくないんだけどね」

 稜也くんが気まずそうに視線を逸らして苦笑を浮かべる。

「優実が思っている以上に、多分、俺、やばいよ」

「やばい?」

「そう。連絡付かないだけで会社半休取る程度に惚れ込んでいるし。実は結構嫉妬深い。だから本当は束縛しまくりたいくらいだよ」

 どきっと心臓が嫌な音を立てる。

 稜也くんの言葉と記憶の中のシンの態度が重なって、全身の血の気がさーっと引いていく。

「けどそんな事したって、お互い息苦しくなって嫌になる。だからそんな事はしないよ」

 まるで安心させるかのように、稜也くんが髪を撫でていく。

「優実の行動を制限したりすることはしない。ただ、俺は絶対に優実を逃がさない」

「それは束縛とは違うの?」

 くすりと稜也くんが笑みを漏らした。

 けどそれは、嬉しいとか楽しいとかとは全く違った種類の笑みだ。

「違うよ。もっと簡単な事だよ」

「簡単?」

「優実の事が好きだって事だよ。だから誰にも渡したくないし、逃がしたくないし、誰よりも傍にいたい」

 稜也くんの言葉に、一度止まった涙が溢れ出してきた。

 再び泣き出したわたしの背をポンポンっと叩き、稜也くんが耳元で囁く。

「好きだよ、優実。他の誰よりも君だけが好きだ。だから泣きたくなったらいつでも呼んで。そんな風に一人で泣かないで。泣く時には腕くらい貸すから」

 優しい言葉に感情が崩れ落ちていく。

 こんなにも優しくて、大切にしてくれて、好きでいてくれて、嬉しくてどうしようもない。

「すき。すごく好きだから。だから絶対にどこにもいかないで。ずっとずっと傍にいてね。いなくならないでねっ」

 叫ぶように泣きじゃくりながら不安をぶつけたわたしの背を、優しく稜也くんが撫でていく。

「そんなのお安い御用ですよ、優実さん。俺が傍にいたいんだから願ったり叶ったりです」

 わーんと子供のように泣き声を上げたわたしを、いつまでもいつまでも稜也くんはなだめる様に背を撫で続けた。

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