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第14話「受け継がれる言葉」


朝の台所は、まだひんやりしていた。

結衣は竈の前にしゃがみ、鍋の中身をゆっくりかき混ぜていた。湯気が立ちのぼり、湿った空気が指先に絡みつく。


「……ならひある道は、習ひやすけれど」


ぽつりと、言葉が零れた。

誰に聞かせるでもない。自分の手の動きに、呼吸を合わせるための、癖のような独り言だった。


「ならぬをならふ人ぞ、かしこき」


火加減を確かめながら、もう一度だけ小さく口にする。

この歌は、不思議と気持ちを落ち着かせてくれる。

祖母に教わったわけでもない。けれど、長く胸の奥に残っている言葉だった。


「結衣さん、今日の分はこれで足りますか?」


背後から声をかけられ、結衣ははっと我に返る。


「はい、大丈夫やと思います。もう少し炊いたら、いい感じになりますよ」


若い兵の妻は、ほっとしたように頷いて離れていった。

誰も、今の言葉を気に留めた様子はない。


結衣は、それ以上考えなかった。




数日後。


結衣は、井戸端で水を汲んでいた。

その向こうで、兵たちが何やら言い合っている声が聞こえる。険悪というほどではないが、少し張りつめた空気だった。


「せやから、それはそっちの落ち度や言うてるやろ」


「でもな、最初に確認せんかったんは――」


言い争いになりかけた、その時だった。


「まあまあ。ならひある道は習ひやすいけどな、間違うた道を直すほうが、よっぽど骨が折れるんや」


少し年上の兵が、そう言って二人の間に入った。


結衣の手が、止まった。


——今の。


胸の奥が、ひやりと冷える。


兵は続ける。


「今さら誰が悪い言うてもしゃあないやろ。次、同じことせんように決めとこ」


相手の兵たちは、渋々ながらも頷いた。

その場は、それで収まったようだった。


結衣は、何も言えずにその光景を見ていた。


(……同じ、言葉)


正確にではない。

けれど、意味も、使い方も、確かに同じだった。


自分が、あの朝、何気なく口にした言葉。


ーーーどうして。


教えた覚えはない。

諭したつもりもない。


ただ、零しただけなのに。


胸の内に、言いようのない感覚が広がる。

嬉しさではなかった。

誇らしさでもない。


もっと、生々しいもの。


(……私の言葉が、歩いてる)


その考えが浮かんだ瞬間、背筋に寒気が走った。




夕刻。


廊下を歩いていると、篠田と鉢合わせた。


「お疲れやな。今日はよう動いとる」


「そんなことないです、いつも通りです」


そう答えながらも、結衣の意識は先ほどの出来事から離れなかった。


篠田は、少し考えるような間を置いてから言った。


「最近な、兵の言葉遣いが変わってきとる」


結衣は、思わず足を止める。


「変わった、ですか?」


「ああ。前より、感情的に荒れにくなった。言い争いになりそうでも、一歩引くやつが増えた気がする」


それは評価でも、詮索でもない。

事実を淡々と述べる口調だった。


「誰かの言葉が、芯になっとるんやろな」


結衣は、喉が少しだけ詰まるのを感じた。


「……そう、かもしれませんね」


それ以上、何も言えなかった。


篠田は、深追いせずに歩き出す。


「ええことや。ただ——」


振り返り、静かに付け加えた。


「言葉は、使う人間の背丈以上に育つこともある。覚えといたほうがええ」


その言葉が、重く胸に落ちた。




夜。


灯りを落とした部屋で、結衣は一人、膝を抱えて座っていた。


(もし、私が間違ったことを言ったら)


今日のあの場面は、結果的には穏便に収まった。

けれど、いつもそうとは限らない。


言葉は、使う人を選ばない。

善意であっても、刃になることがある。


官兵衛の姿が、ふと脳裏に浮かぶ。


あの人は、言葉を無駄にしない。

必要な時に、必要な分だけ置く。

だからこそ、あれほど重い。


(私は……軽すぎる)


口にする前に、深く考えていたわけではない。

自分を律するための言葉を、ただ零していただけだ。


それでも、その言葉は、もう自分の手を離れている。


(もう、私だけのものやない)


その事実を、ようやく受け入れる。


怖さは、消えない。

けれど、目を逸らすこともできない。


——なら、選ばなければならない。


言うべき言葉と、

言わずに飲み込む言葉を。


沈黙もまた、選択なのだと。




夜半。


官兵衛は、書付を前に静かに筆を置いた。

陣内は、妙に静かだった。

音がないわけではない。歩哨の足音も、風に鳴る布の擦れも、いつも通りある。

——だが、ざわつきがない。


(……争いの芽が、伸びておらぬ)


官兵衛は、視線を上げずに考える。

ここ数日、報告は入っている。

物資の配分。負傷兵の扱い。

いずれも、不満が出やすい事柄ばかりだ。

それでも、大事には至っていない。


(命令を増やした覚えはない)

(罰を厳しくもしておらぬ)


つまり——

抑えているのは、上ではない。

下だ。


兵たちが、自ら一歩引いている。

感情より先に、考える間を持っている。

官兵衛は、ようやく顔を上げた。


(誰かが、言葉を置いたな)


命令ではない。

規律でもない。

もっと柔らかく、だが芯のあるもの。


ふと、結衣の姿が脳裏をよぎる。

だが、すぐに打ち消した。


(いや……確かめるには早い)


人は、偶然でも変わる。

意図せずとも、流れは生まれる。


官兵衛は立ち上がり、陣の外を見た。

夜気の中で、灯が静かに揺れている。


「……言葉は、刃にも盾にもなる」


誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。

そして、心の中で結論だけを置く。


(もし、あの娘が関わっているのなら——)

(軽く扱ってはならぬ)


問いただすことはしない。

褒めることもしない。


ただ、

今後、結衣が口にする言葉を、これまで以上に“注意深く聞く”

それだけを決めた。


官兵衛は、再び筆を取った。

陣は、静かに呼吸を続けている。




翌日。


結衣は、同じいろは歌を、口にしなかった。

代わりに、深く息を吸い、静かに手を動かす。


言葉は、もう歩き始めている。

だからこそ、自分は立ち止まる。


軽々しく口にすることは、もうできない。


それは、不自由ではなかった。

責任を引き受ける、ということだった。


結衣は、今日もこの陣営で生きている。


言葉の重さを、初めて知ったまま。




『日新公いろは歌』は、今の時代に読んでも、なるほどなぁと思う歌が沢山あります。

気になる方は『日新公いろは歌』を検索して

是非見てみてください。


※「日新公いろは歌」とは、島津 忠良ただよしが、5年余の歳月をかけ完成させたという薩摩藩の「郷中ごちゅう教育」の基本の精神となったとなったといわれる47首の歌です。

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