第14話「受け継がれる言葉」
朝の台所は、まだひんやりしていた。
結衣は竈の前にしゃがみ、鍋の中身をゆっくりかき混ぜていた。湯気が立ちのぼり、湿った空気が指先に絡みつく。
「……ならひある道は、習ひやすけれど」
ぽつりと、言葉が零れた。
誰に聞かせるでもない。自分の手の動きに、呼吸を合わせるための、癖のような独り言だった。
「ならぬをならふ人ぞ、かしこき」
火加減を確かめながら、もう一度だけ小さく口にする。
この歌は、不思議と気持ちを落ち着かせてくれる。
祖母に教わったわけでもない。けれど、長く胸の奥に残っている言葉だった。
「結衣さん、今日の分はこれで足りますか?」
背後から声をかけられ、結衣ははっと我に返る。
「はい、大丈夫やと思います。もう少し炊いたら、いい感じになりますよ」
若い兵の妻は、ほっとしたように頷いて離れていった。
誰も、今の言葉を気に留めた様子はない。
結衣は、それ以上考えなかった。
*
数日後。
結衣は、井戸端で水を汲んでいた。
その向こうで、兵たちが何やら言い合っている声が聞こえる。険悪というほどではないが、少し張りつめた空気だった。
「せやから、それはそっちの落ち度や言うてるやろ」
「でもな、最初に確認せんかったんは――」
言い争いになりかけた、その時だった。
「まあまあ。ならひある道は習ひやすいけどな、間違うた道を直すほうが、よっぽど骨が折れるんや」
少し年上の兵が、そう言って二人の間に入った。
結衣の手が、止まった。
——今の。
胸の奥が、ひやりと冷える。
兵は続ける。
「今さら誰が悪い言うてもしゃあないやろ。次、同じことせんように決めとこ」
相手の兵たちは、渋々ながらも頷いた。
その場は、それで収まったようだった。
結衣は、何も言えずにその光景を見ていた。
(……同じ、言葉)
正確にではない。
けれど、意味も、使い方も、確かに同じだった。
自分が、あの朝、何気なく口にした言葉。
ーーーどうして。
教えた覚えはない。
諭したつもりもない。
ただ、零しただけなのに。
胸の内に、言いようのない感覚が広がる。
嬉しさではなかった。
誇らしさでもない。
もっと、生々しいもの。
(……私の言葉が、歩いてる)
その考えが浮かんだ瞬間、背筋に寒気が走った。
*
夕刻。
廊下を歩いていると、篠田と鉢合わせた。
「お疲れやな。今日はよう動いとる」
「そんなことないです、いつも通りです」
そう答えながらも、結衣の意識は先ほどの出来事から離れなかった。
篠田は、少し考えるような間を置いてから言った。
「最近な、兵の言葉遣いが変わってきとる」
結衣は、思わず足を止める。
「変わった、ですか?」
「ああ。前より、感情的に荒れにくなった。言い争いになりそうでも、一歩引くやつが増えた気がする」
それは評価でも、詮索でもない。
事実を淡々と述べる口調だった。
「誰かの言葉が、芯になっとるんやろな」
結衣は、喉が少しだけ詰まるのを感じた。
「……そう、かもしれませんね」
それ以上、何も言えなかった。
篠田は、深追いせずに歩き出す。
「ええことや。ただ——」
振り返り、静かに付け加えた。
「言葉は、使う人間の背丈以上に育つこともある。覚えといたほうがええ」
その言葉が、重く胸に落ちた。
*
夜。
灯りを落とした部屋で、結衣は一人、膝を抱えて座っていた。
(もし、私が間違ったことを言ったら)
今日のあの場面は、結果的には穏便に収まった。
けれど、いつもそうとは限らない。
言葉は、使う人を選ばない。
善意であっても、刃になることがある。
官兵衛の姿が、ふと脳裏に浮かぶ。
あの人は、言葉を無駄にしない。
必要な時に、必要な分だけ置く。
だからこそ、あれほど重い。
(私は……軽すぎる)
口にする前に、深く考えていたわけではない。
自分を律するための言葉を、ただ零していただけだ。
それでも、その言葉は、もう自分の手を離れている。
(もう、私だけのものやない)
その事実を、ようやく受け入れる。
怖さは、消えない。
けれど、目を逸らすこともできない。
——なら、選ばなければならない。
言うべき言葉と、
言わずに飲み込む言葉を。
沈黙もまた、選択なのだと。
*
夜半。
官兵衛は、書付を前に静かに筆を置いた。
陣内は、妙に静かだった。
音がないわけではない。歩哨の足音も、風に鳴る布の擦れも、いつも通りある。
——だが、ざわつきがない。
(……争いの芽が、伸びておらぬ)
官兵衛は、視線を上げずに考える。
ここ数日、報告は入っている。
物資の配分。負傷兵の扱い。
いずれも、不満が出やすい事柄ばかりだ。
それでも、大事には至っていない。
(命令を増やした覚えはない)
(罰を厳しくもしておらぬ)
つまり——
抑えているのは、上ではない。
下だ。
兵たちが、自ら一歩引いている。
感情より先に、考える間を持っている。
官兵衛は、ようやく顔を上げた。
(誰かが、言葉を置いたな)
命令ではない。
規律でもない。
もっと柔らかく、だが芯のあるもの。
ふと、結衣の姿が脳裏をよぎる。
だが、すぐに打ち消した。
(いや……確かめるには早い)
人は、偶然でも変わる。
意図せずとも、流れは生まれる。
官兵衛は立ち上がり、陣の外を見た。
夜気の中で、灯が静かに揺れている。
「……言葉は、刃にも盾にもなる」
誰に聞かせるでもなく、そう呟いた。
そして、心の中で結論だけを置く。
(もし、あの娘が関わっているのなら——)
(軽く扱ってはならぬ)
問いただすことはしない。
褒めることもしない。
ただ、
今後、結衣が口にする言葉を、これまで以上に“注意深く聞く”
それだけを決めた。
官兵衛は、再び筆を取った。
陣は、静かに呼吸を続けている。
*
翌日。
結衣は、同じいろは歌を、口にしなかった。
代わりに、深く息を吸い、静かに手を動かす。
言葉は、もう歩き始めている。
だからこそ、自分は立ち止まる。
軽々しく口にすることは、もうできない。
それは、不自由ではなかった。
責任を引き受ける、ということだった。
結衣は、今日もこの陣営で生きている。
言葉の重さを、初めて知ったまま。
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