必要な距離と心地よい関係
「アンジー、ちょっと休憩をしませんか?」
「ロイ」
いつ騎士団から戻って来たのか、書類を確認していたアンジェニカの目の前にはロイドが立っていた。
いつの間にか愛称で呼び合うようになった二人は、それでも一定の距離を保った関係だ。
ロイドがアンジェニカの手を取って、メアリーが休憩のために準備をしたテーブルまでエスコートをする。その距離僅か十メートル。それでも、その手を取った自分が冷静であることを確認してアンジェニカは安心した。
「まぁ、シュークリームね」
アンジェニカの前に上部はカリッとして横はふわふわのシューに、カスタードクリームがたっぷり入ったシュークリームが置かれた。そのほかにクッキーとマドレーヌ。どれも美味しそうだが。
「私カスタードクリームが大好きなの」
そう言って美味しそうに頬張るアンジェニカの顔をぼうっと見ているロイド。
「ロイ?」
「あ、ああ、美味しそうだね」
アンジェニカの声に我に返ったロイドは、慌ててシュークリームを半分口に入れた。
「まぁ、大きな口ね、フフフ」
アンジェニカはそう言ってロイドの口の端に付いたクリームをナフキンで拭き取った。一瞬にして顔を赤くするロイドに「子供みたいね」とアンジェニカは笑う。
アンジェニカは、ロイドと交わした約束をしっかりと守って友人の線を越えず、姉と弟のようでさえある。家族と触れ合うことが少なかったロイドも、本当に母のように姉のように慕っているのかもしれない。実際にはロイドの方が年上ではあるが。
ロイドは母親を早くに亡くした。父であるヨシュアに愛されてはいたが、忙しいヨシュアはロイドが満足するほど相手をしてくれたわけではない。
寂しい思いをしていたところに、庭師の男だ、見慣れぬ侍女だが執拗に近づいてくるので、ロイドは殆どの時間を部屋に閉じ込められていた。
一人で幼少期を過ごしていたロイドの話し相手は、当時護衛だったジェイや騎士兼侍女のハンナ。そして、十歳でこのミリタリル領にやってきてからは、領地から殆ど出たことがない。
家族の温もりをあまり知らないロイドが、家族と思っているのが屋敷の使用人たち。それでも、本当の家族とは言えない。幼い頃から当主であることを自覚していたロイドは、甘えたくても甘えることは出来ない。そんなロイドを唯一抱きしめることが出来るのが婚約者であるアンジェニカだ。
兄妹のように親子のように存在すれば、穏やかに生活していられる。思った以上に心地のいい環境と良好なロイドとの関係。これ以上の関係など望む必要はない。
ここが私の居場所になればいい。その為には、ロイに恋愛感情を持たない。それさえ守れば、私はここで幸せに暮らしていけるわ。
優しい陽の光が降り注ぐ日の午後。
アンジェニカはサロンでお気に入りの紅茶を飲みながら、騎士団で訓練をしているロイドの帰りを待っている。もう少ししたらロイドが帰って来て、汗を流したらアンジェニカを迎えに来るはずだ。
侍女のメアリーがお休みの為、侍女長のハンナがアンジェニカに付いている。因みに、侍女長のハンナは長槍の使い手で、若い頃は単騎で千の敵勢を相手にしたと言われる武人だった。
「ねぇ、ハンナ」
「はい、何でございましょう?」
「屋敷の幻影魔法は誰が掛けているの?」
「あれは、魔道具部が作った魔道具の試作品です」
「まぁ、凄いのね」
「はい。騎士団は百人を超える大所帯ですから、個々の能力も多岐に亘ります。適材適所で幅広く色々やっております」
「私、騎士団に行ってみたいの。でも、ロイド様は私を騎士団に連れて行ってくれないのよ。建物に近づくのもダメですって」
中の様子を見てみたい。騎士隊の鍛錬も見たいし、魔道具部も見てみたい。それなのにロイドは「危ない、ダメだ」と困った顔をして近づかないように妙なシールドまで張っている。何が危ないっていうのよ、とアンジェニカはちょっと不満。そのシールド自体は狭い範囲に張られたもので、遠回りをすれば騎士団に辿り着けたのだが、それを知るのはもう少し後だ。
「旦那様は、アンジェニカ様を大切にしていらっしゃるのですよ」
「騎士団に近づかないことが大切にしていることになるの?」
「騎士団は荒くれ者の集まり。アンジェニカ様に万が一のことがあってはなりません」
「本当に?本当にそんな危険な場所なの?」
アンジェニカの言葉にハンナは優しく笑う。
「いいえ。彼らは世間からは荒くれ者なんて言われますが、気のいい人たちです」
「なら」
「きっと旦那様は心配しているのです」
「何を?」
「彼らに対して恐怖を感じ、拒絶されることをです」
「そう」
ロイドが騎士団を大切に思っていることは分かっている。そんな大切な存在をアンジェニカが拒絶するはずがない。
「私は彼等と仲良くなりたいわ」
「そうですね。では旦那様にそう言ってみてはいかがでしょうか?」
「ええ、そうね」
そう答えてアンジェニカは紅茶を口にした。紅茶にデザートの山葡萄のコンポート。アンジェニカの一番好きな組み合わせだ。
山に自生する葡萄で、ミリタリル領内の山ではあちこちで目にすることが出来る生命力のある山葡萄。葡萄を食べたことがなかったアンジェニカが初めて口にした時、あまりの美味しさに「毎日でも食べたいわ」と言ったので、毎日食後のデザートやティータイムに出てくる。
元々葡萄自体があまり流通していないこともあって、貴族の中には葡萄を食べたことがない者も多い。反対に山葡萄は、自分で山に取りに行けば食べられる手軽さから、庶民には割と食べ慣れた果物だ。そして、庶民が口にするものを食べたがらない貴族は、あまり山葡萄を食べない。アンジェニカがそのような理由で食べなかったわけではないが、山葡萄を貴族は食べないのは暗黙の認識だった。だからミドル家の屋敷の料理人たちも出さなかった。
「アンジー」
「ロイ」
白いシャツにダークグリーンのズボンを穿いたロイドの髪は僅かに濡れている。シャワーを浴びて、急いできてくれたのだろう。そんなロイドを見るとついその形のいい頭を撫でたくなる。
「訓練、お疲れ様でした」
「長く待たせてしまいましたか?」
「いいえ」
「よかった」
ロイドは、ハンナが淹れた紅茶を飲んでホッと息を吐いた。
「お茶を飲み終えたら庭に行きましょう」
「ええ。楽しみだわ」
アンジェリカがニコッと笑うとロイドは僅かにその美しい顔を赤らめた。
屋敷の庭には、色とりどりのラナンキュラスが美しく咲いている。その先にはチューリップも綺麗に並んで優しい風に揺られていた。
「素敵ですね」
アンジェニカは、幾重にも花弁を重ねるラナンキュラスに顔を寄せ、その繊細な重なりを楽しんだ。チューリップが並んだ花壇を歩けば、物語のワンシーンにでも入り込んだ気分だ。
「旦那様、アンジェニカ様!」
二人に気が付いてニコニコしながらやって来た庭師のセイラ。女性にしてはしっかりした体つきのセイラは、一人でこの広い庭を管理している。
「こんにちはセイラ。あなたが育てたお花、とても素晴らしいわ」
「ありがとうございます」
既に六十を過ぎているセイラだが、それを知らない人には四十代くらいにしか見えない。赤茶の縮れた髪の毛を一つに結び、グレーの繋ぎのズボンがいつものスタイルで、遠目からだと少年のようにも見えてしまう。
「この広い庭園を一人で管理するなんて本当に感心してしまうわ」
「恐れ入ります。ですが、私にとっては庭の広さは問題ではありません」
そう言うセイラは土魔法の使い手で、畑の管理はそれほど大変なことではないらしい。ついでに弓の使い手でもあるセイラは、時々菜園を荒らしに来る野生動物相手にその実力を発揮している。
「宜しければアンジェニカ様のお好きな花を教えてください」
「まぁ。私のために花を育ててくれるの?」
「はい、よろしいでしょうか?」
「勿論よ、嬉しいわ。私はカレンデュラが好きよ。ガーベラも」
それを聞いたセイラはニッコリとして「来年、楽しみにしていてください」と言った。
来年。
「ここ一面をカレンデュラとガーベラで埋め尽くしましょう」
「あら、私はお花なら何でも好きなのよ。カレンデュラやガーベラが沢山咲いていたら嬉しいけど、他のお花も楽しみたいわ」
「分かりました。腕が鳴ります」
そう言って胸を張るセイラ。
来年もこの庭園に咲き乱れる花を見られたらいいわね。
先の未来を想像できないアンジェニカは小さく溜息を吐いた。
読んで下さりありがとうございます。








