逃げるんじゃありません!
はぐれ 紅狼が岩石を下りて、悠然とロイドの方に向かってくる。ロイドははぐれ 紅狼に向き直り剣を構えた。しかしその前を塞いだのはクレソン。はぐれ 紅狼がピタッと足を止めた。アンジェニカはクレソンから降りハーネスを外す。ブルブルッと身体を震わせたクレソンの真っ赤な毛がキラキラと光っていた。
「アンジェニカ」
「ロイ」
駆け寄ってきたアンジェニカを抱き寄せた。アンジェニカをロイドに預けたクレソンは、はぐれ 紅狼の前に進んでいく。唇を捲り上げ牙を剥き出しにして唸るはぐれ 紅狼。体格差はさほどないがクレソンの方が少し小さく見える。クレソンが近づく度に唸りながら後退りするはぐれ 紅狼。
暫く睨み合った次の瞬間、二頭は同時に相手に向かって飛び掛かった。牙を剥き出しにして、伸びた爪を立てる。背に噛み付き、足で踏みつける。身体を捻りながら首に噛み付き、巻き込むように叩き付ける。
その唸り声と威嚇の声に小型の魔獣たちは散り散りに逃げ出した。 紅狼たちは二頭を囲み、その様子を窺っている。
「クレソン……」
アンジェニカの手に力が入る。その時「キャン!」と悲鳴に近い鳴き声が聞こえた。
「クレソン!」
二頭の周りを 紅狼たちが囲んでいて、アンジェニカにはその姿が見えない。
額を割かれたクレソンは顔を血だらけにしている。その傷は幼い頃に、目の前に居るはぐれ 紅狼が、クレソンを攻撃してきた時に付けた傷と同じ場所。額の焼けるような痛みが、蓋をしたはずの恐怖を再び思い出させる。
クレソンは、急に覇気を無くして耳をぱたんと閉じ、尻尾を下に巻き込んでウロウロし始めた。はぐれ 紅狼は嘲笑うかのように唸り声をあげると、クレソンは益々怯え視線をはぐれ 紅狼から逸らした。
目障りな兄弟や仲間を、次々と攻撃して従わせようとしていたはぐれ 紅狼は、生まれて二ヵ月程度の弟のクレソンを攻撃した。玩具で遊んでいるかのように踏みつけ、噛み付き振り回し引掻いた。
恐怖に震えたクレソンは、ダラダラと血を流しながら訳も分からないまま、群れから逃げ出すことしか出来なかった。幼い弟は餌を捕まえることも出来ないだろう。だからはぐれ 紅狼はクレソンを追いかけることはしなかった。幼狼が群れから出れば死んだも同然だったからだ。
しかし、その後一年もしない内にはぐれ 紅狼もマリアベルに群れを追い出された。群れの秩序を乱すはぐれ 紅狼は、次代のリーダーに相応しい恵まれた体格と力を持っていたが、群れの仲間を思いやる気持ちや信頼を得る能力が欠落していた。幼狼、老齢、雌や力の無いモノに対して、威嚇し攻撃をし、いくつもの命を奪った。それはまるで遊んでいるかのようだった。
力でマリアベルを倒しリーダーになることに、何ら異論はない 紅狼たちであったが、はぐれ 紅狼のその行動は弱者を恐怖で屈服させるだけで、仮令マリアベルを倒したとしても到底受け入れられるものではない。群れの中に新たな派閥を作り、マリアベルを倒し次のリーダーになろうとしていたはぐれ 紅狼は、その派閥の仲間たちと共に追い出された。
しかし、追い出され怒り狂ったはぐれ 紅狼が、共に追い出された仲間を喰い殺したのは失敗だった。魔獣の樹窟を支配するためには自分の手足となる仲間が必要だ。そこで、他種の魔獣たちを力で従わせた。その中に一角熊や 山大蛇や 黒闘牛などの大型魔獣はいない。流石に 紅狼一頭で仕留められるほど彼らは弱くはない。
やむなく小型魔獣を従えることにしたが、小型魔獣でも数が集まればそこそこの戦力になる。魔獣の樹窟を掻きまわし、紅狼を挑発し、隙を突いてマリアベルを瀕死まで追い詰めた。あの時、他の 紅狼が助けに来なければ、間違いなくマリアベルの息の根を止めることが出来た。そうすれば今頃、はぐれ 紅狼が群れのリーダーだったかもしれない。
しかし、マリアベルの死期は近い。次のリーダーとなる 紅狼は賢いがまだ若い。ここで力を示せば、 紅狼を支配しこの樹窟を、森を支配することも出来る。その次は人間共だ。
目の前で尻尾を丸めて怯える弟は、すっかり恐怖に取り込まれている。
昔、自分が恐怖を植え付けた脆弱な弟が、死ぬこともなく人間のペットになっていた。アレは恐怖から逃げ出し、人に飼われる犬として生きる道を選んだ木偶の坊。身体が大きくなっただけの腰抜けで、見せかけの牙を持つ飼い犬だ。弱い人間に弱い弟。自分の行く手を邪魔するなら、殺してしまえばいい。
はぐれ 紅狼はジリジリとクレソンに近づいて行く。少しずつ後退りするクレソン。他の 紅狼たちはクレソンが後退してくると少しずつ左右に分かれ始めた。
まずはこの哀れな弟を八つ裂きにして、人間共の戦意でも奪ってやろう。
はぐれ 紅狼は悠然と足を進め、その間合いを詰める。
その時、銃声が三発立て続けに響いた。
「クレソン!逃げるんじゃありません!あなたは強いのよ!一角熊に平気で向かって行くのに、ちょっと怪我したくらいで何ですか!!!」
アンジェニカの怒りを含んだ響く声がクレソンの耳を貫く。
「クレソン!!狼には戦わないといけない時があるの!それが今!ここで逃げたら、頭を撫でてあげないわよ!いいの?今日の晩御飯は、あなたの大嫌いなカエルの肉にするわよ?いいの?」
「アンジー……」
ロイドは微妙な顔だ。今このタイミングで言うことがカエルの肉?と言いたいところをグッと我慢する。そして、クレソンは妙に頼りない顔で振り返った。アレは間違いなくカエルの肉だけは嫌だと言っている。カエルの肉は歯ごたえが無くて好きではない。
「頑張ったら、特別脂の乗った大猪のお肉を沢山食べさせてあげる」
「グゥ」
アンジェニカが飛切りの笑顔で言うと、クレソンが嬉しそうに尻尾を振った。ロイドはやはり微妙な顔をしている。
それでいいのか?カエルが大猪に変わっただけでやる気が出るのか?
しかし、クレソンの耳はピンと立ち、尻尾が上を向いている。身体から放たれる威圧はピリピリとロイドの肌を刺激した。
「やる気が出たみたいね。やっぱりその気にさせるには肉が一番だわ」
アンジェニカは満足気だ。
クレソンは、勢いよくはぐれ 紅狼に飛び掛かった。幾度もその爪が毛と肉を割き、大きく開けた口から伸びる牙がその背に突き刺さる。一瞬の隙をついてはぐれ 紅狼の喉に、クレソンの牙が食らい付いた。はぐれ 紅狼は暴れてその牙から逃れようとしたが、クレソンは離さない。そして、クレソンははぐれ 紅狼を咥えて引き摺りながら森の奥の方へと進んでいく。他の 紅狼たちもそれに続く。
「クレソン……?」
アンジェニカがそのあとを追おうとしたが、ロイドがそれを止めた。
「ここからは彼等の戦いだ。人間が立ち入るべきではない」
「でも」
「大丈夫だ」
アンジェニカは既にその姿を森の中に隠したクレソンを見送った。
「帰って来るわよね?」
「帰って来るよ。晩御飯を楽しみにしている筈だ」
今日は脂の乗った大猪の肉。クレソンの大好物。
「うん」
アンジェニカは不安気な顔をして頷いた。
魔獣との攻防はとりあえず決した。これからは様子を見ることになるが、この場に小型の魔獣で息をしているモノはなく、既に逃げ出している。自分たちを支配するモノが居なくなれば、危険を冒してまで人間に害をなそうとはしないだろう。
ロイドの号令と共に皆が退却を始めた。怪我は無いものの、疲れていないわけではない。「帰ったら思いっきり寝るぞー」とワイワイしている中、一人不満気な顔をしているのはリアーナ。
「結局、今日は何もしていない」
「いや、母さん。良いことだよ?騎士隊の皆さんが頑張ってくれたんだから」
「そんなことは分かっているわ。……はぁ、暴れたかった……」
リアーナの本音がボロリと零れた。カリンがクスリと笑った。
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