君は……?
ロイドがアンジェニカの部屋をノックすると、静かにドアが開きメアリーが顔を覗かせた。
「容体は?」
「今は落ち着いていらっしゃいます。熱も大分下がりましたし」
アンジェニカはロイドが部屋を出てから一度も目を覚まさないまま、四時間も眠り続けている。
「あとは私が見ているよ」
ロイドが言うとメアリーは頭を下げて静かに出て行った。
堕ちる、か。
初めての結婚で散々地獄を見た。その後もなかなか悲惨な状況ではあった。だけど自分も一緒に堕ちてはいない。必死に、令嬢たちをこちらに引き上げようとしてきた。でも、そうか。自分も堕ちればいいのか。
それが正しいなんて間違っても言わないが、少なくとも使用人たちは堕ちていくことを止めないそうだ。それはつまりロイドが狂っても構わないということか?
その真意は分からないが、少なくとも自分の気持ちにブレーキを掛けることを止めてもいいと背中を押してもらったことは分かる。後はアンジェニカが一緒に堕ちてくれるかだが。
「ねぇ、君は一緒に……かい?」
静かに寝ているアンジェニカの顔を覗き込んで、柔らかい薄紫の髪を撫でながら呟いたロイド。すると眠りが浅かったのか、アンジェニカがゆっくりと目を開いた。
「アンジェニカ」
「ロイ……?」
「気分はどう?」
暫くぼうっとしていたアンジェニカは起き上がろうとした時、頭がズキンとした。急に起き上がったからだろうか。ロイドに支えられて漸く身体を起こすことが出来たが、頭と身体がとても重い。
「私、随分と寝ていたのかしら?」
「ああ、四時間くらいかな」
「そんなに」
「まだ熱があるから無理はしないで」
ロイドがアンジェニカの額に手を当てながら言う。
「迷惑を掛けてごめんなさい」
「全然迷惑じゃないよ。寧ろ私が、アンジェニカに無理をさせてしまって反省しているのだから」
「そんなことはないわ。私が自分の体調を管理できていなかったのだから」
アンジェニカがそう言うとロイドはクスクスと笑う。
「ロイ?」
「お互い様ってことにしようか?」
ロイドがそう言うとアンジェニカもクスリと笑って「そうですね」と言った。
「何か飲む?お腹は空いていない?」
「お水を」
「ん」
ピッチャーから水を注いでアンジェニカに渡した。
「何か食べられそう?」
「今はお腹が空いていないわ」
「そう、でも何か食べないとね。フルーツを貰ってくるよ」
「ありがとう」
ロイドは部屋を後にした。
アンジェニカの意識が覚醒し始めた頃、ロイドは何かをアンジェニカに訊いた気がした。アンジェニカが眠っていると思って言った言葉だろうけど、一体自分に何を訊きたかったのか。そのことを訊いたら話してくれるだろうか?いや、何も聞かない方がいいだろう。
アンジェニカは、自分の髪を撫でた温かく大きな手を思い出した。あの温もりに何も考えずに包まれることが出来たらどんなに幸せだろうか。しかし、それは絶対にアンジェニカが望んではいけないことだ。二人の適度な距離が、あの温かい手と自分の居場所を守る唯一の方法。それ以上何を望むというのだ。
アンジェニカは大きな溜息を吐いて、それから自分が寝起きであることに漸く気が付いた。
「やだっ!」
ぼさぼさの髪なのに!涎とか垂らしてない?口を開けて寝ていなかった?化粧もしていない!そもそも、私は夜着じゃない!
急に恥ずかしくなったアンジェニカは少しふらふらしながら立ち上り、顔を洗って髪を軽く梳いた。夜着を着替えたかったけど、いつロイドが入って来るか分からないからそれは出来ない。化粧も出来ないけど、それも仕方がない。
アンジェニカはそれ以上体裁を整えることを諦めてベッドに戻った。程なくしてロイドが戻って来たが、アンジェニカの変化には気が付かないようだ。大した変化も無いのだからロイドが気付くはずもないのだが。
布団を胸の位置まで掛け、ロイドが持ってきた桃と山葡萄をゆっくりと食べるアンジェニカ。
「美味しいわ。それに」
山葡萄は凍らせてあった。初めて食べる凍らせた山葡萄は冷たくて甘くて美味しい。
「こんなふうに食べられるなんて」
アンジェニカがフルーツを食べている間、ロイドはずっとその様子を見て、目が合えば微笑んでいた。
なんだかいつものロイじゃないみたい。フフフ、なんだか歳相応に見えるわ。
いつものロイドは少し弟のように甘える感じがあって、それはそれで可愛くて好きだったけど、こんな大人の対応も素敵だと思ってしまう。それにちょっとドキドキしている自分がいる。
本当に美形って心臓に悪いわね。
アンジェニカは自分のことをじっと見つめるロイドの目を、手の平で覆い隠した。
「見過ぎです」
「ハハハ、アンジェニカが美味しそうに食べるから」
アンジェニカ?
「どうして?」
「え?」
「どうしてさっきからアンジェニカと呼ぶの?」
「……どうしてかな?」
「もう!」
「アンジェニカは嫌い?」
「わたしの名前です、嫌いではありません」
「僕も好きだよ。とても綺麗で、君の全てを表しているかのようだ」
「ロイ?」
「アンジェニカと呼ぶのも悪くないね」
ロイドが笑う。アンジェニカには何が言いたいのか分からない。ただ、自分を揶揄っているのかもしれないと思った。病人の自分を?ロイドが?もしかして……。愛称で呼ぶことを止めて距離を取っているの?それなら理解できる。ロイドはアンジェニカに、暗に近づき過ぎるなと言っているのだとしたら?
それに気が付くと、アンジェニカは急に恥ずかしくなってきた。いつの間にか、自分はロイドと距離感を間違えて、入ってはいけない領域に足を踏み入れようとしていたのだ。それをアンジェニカと呼ぶことで教えてくれていた。
「アンジェニカ?」
まただ。
「ごめんなさい、ロイ。まだ身体が怠くて」
「ああ、そうか。ごめん、また気が付かないで」
アンジェニカがベッドに横になると、ロイドはアンジェニカの髪を何度か撫で「ゆっくり休んで」と言って部屋を出て行った。
「ロイド様」
アンジェニカは呟いた。いつの間にか自分は間違いを犯そうとしていた。越えてはいけない線を越えるところだったのだ。ずっとここにいたいなら、きちんと弁えないと。
ここにいると幸せでつい自分の立場を忘れてしまう。いっその事、先の令嬢たちのように私も堕ちてしまえればいいのに。ロイも一緒に堕ちてくれればいいのに。
ロイドが一緒なら自分は堕ちるところまで堕ちても構わない。それどころか、醜い自分はそれさえも望んでいる。それに気が付いているからこそ、ロイドは距離を取ろうとしているのだ。彼は自分とは違う。もう十分苦しんだのだ。それなのに自分と一緒に堕ちろと?馬鹿なことを考えてしまった。
アンジェニカは少し笑った。体調を崩して気が弱くなっているようだ。早く元気になっていつもの自分に戻らなくては。アンジェニカは、目を瞑ったまま何度も、ロイドを愛していない、ロイドを愛さない、と繰り返していた。
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