紅狼のクレソン
紅狼は真っ赤な毛を持つ狼型の魔獣で、成長すれば通常の狼の二倍から三倍の大きさになる。集団で行動する紅狼は、仲間と協力をして狩りをし、自分たちより数倍大きな獲物を狙う。
個体によって力に差はあるが、それぞれに役割があり、たとえ力が弱くても自分の役割を果たせば餌にありつくことができる。
それが単体になると、狩りの成功率が格段に下がるため、めったなことがない限り、紅狼は単体では行動をしない。そして雄でも雌でも、リーダーは常に群れの中で一番強いものがなる。
そんな紅狼ではあるが、意外なことにその性質は情に厚く、懐けば無防備に腹を見せる。が、そんなかわいらしい一面があることを知っているのは、おそらくこの屋敷の人間だけだろう。
アンジェニカの愛馬ならぬ愛魔獣である紅狼のクレソンは、幼いころに親と離ればなれになってしまったはぐれ紅狼。
ロイドがクレソンを見つけたとき、体中が傷だらけで、額には爪で抉られたような大きな傷があった。一命は取りとめたものの、当時のクレソンは生後数か月。それに衰弱していて、山に帰せばすぐに死んでしまうことは容易に想像できた。
魔獣の生死を心配する必要があるのか? と言われそうだが、小さくなって震えているクレソンに、皆が心を奪われてしまったのだから仕方がない。エブソンが世話役を買ってでて、クレソンはすっかり人間に慣れてしまった。
アンジェニカがクレソンと初めて会ったのは、屋敷に来て一週間がすぎたころ。
一般的に、令嬢は動物の匂いを嫌ったり、大きい動物を恐れたりするものだ。だから、アンジェニカが一人で散歩をしたいとい言ったとき、メアリーはてっきり庭園に行くのだと思っていた。まさか、牧場に動物を見に行くなんて思いもしなかったのだ。
屋敷の裏の広い牧場に放たれた牛や馬、そして、真っ赤な毛並みのクレソン。厩舎番のエブソンにじゃれついて遊んでいる姿を見て、アンジェニカは感嘆の声を上げた。
「なんて大きくて美しい犬なのかしら?」
アンジェニカの声に驚いたエブソンは慌てたが、大きなクレソンを隠すことはできない。
「突然来てごめんなさい。素敵なワンちゃんね」
アンジェニカがニコニコしながら厩舎番のエブソンに話しかけるので、エブソンはクレソンを隠すことを諦めた。
「驚かせてしまったわね」
クレソンは見なれないアンジェニカを警戒して、近づこうとしない。
「アンジェニカ様。こいつは犬じゃないんです」
「まぁ、じゃあ狼?」
「こいつは、そのー、まぁ、狼っていうか……紅狼なんです」
困った顔をしたエブソンが言葉を濁しながら答える。
「紅狼? 魔獣の? まぁ、紅狼ってこんなにかわいいのね!」
「かわいい? かわいいっすかねぇ?」
エブソンはアンジェニカの思いもよらない言葉にキョトンとしたが、当のアンジェニカは興味津々でクレソンを見つめている。
「私も触っていいかしら?」
「やめておいたほうがいいですよ。こいつは人間に慣れていますけど、見慣れないやつには牙を剥くこともありますから」
「そう。仲良くなりたいのに……。時間をかければ慣れてくれるかしら?」
アンジェニカは心底残念そうな顔をした。
「どうですかね。わかりません、経験がないので。でも、こいつは力で自分が敵わないと思った相手には服従します」
「私に力尽くで従わせろと?」
「そういう手もあるということです」
アンジェニカは困った顔をした。
「私にはできないわ。そんな力なんてないもの」
アンジェニカは残念そうな顔をした。
「そうですか」
反対にエブソンは安堵の表情。もし、クレソンがアンジェニカにけがでもさせたら大変なことになるし、早々に諦めてくれれば安心だ。
それに、アンジェニカより前にやってきた令嬢たちから、いずれは自分がこの屋敷の女主人になるのだからと、たいして興味もないくせに牧場を見に来て、泥がドレスについただの、牛が大きくて怖いだのと散々文句を浴びせられて、エブソンは正直うんざりしていた。
そのせいもあって、アンジェニカにはここには来てほしくない、と思っているのだが――。
「だから、私、これから毎日ここに来てもいいかしら?」
「え?」
諦めてくれるのかと思ったがそうではなかったようだ。
「私もクレソンと仲良くなりたいのよ」
アンジェニカは真剣な面持ちでエブソンに訴えた。
「いや、無理ですよ。もし咬まれたりしたらどうするんですか?」
「クレソンは人を咬むような子ではないでしょ?」
「まぁ、そうなんですけど……引っかかれたりしますよ。あ、もちろんわざとじゃないですけど」
「ええ、もちろんわかっているわ」
「それに、魔獣なんで獣臭いですよ」
「そんなの平気よ」
「えー……」
(困ったなぁ、全然諦める気がなさそうだ)
エブソンは小さく溜息。
「……わかりました。でも、無茶なことはしないでくださいね。クレソンに近づくのは、俺がいるときだけにしてください」
エブソンはそう言って頭をかいた。
「ええ、そうするわ」
「あと、旦那様にも了解をもらってください」
「わかったわ!」
アンジェニカはうれしそうに顔を輝かせた。
もともと、人間に慣れていることもあるが、幼狼ということもあってクレソンは遊ぶことが大好きだ。
だからアンジェニカは、決まった時間になると黒闘牛の骨や、大きなぬいぐるみ、硬いボールなどを持ってクレソンに会いにいった。
最初は柵の外から話しかけたり、骨やボールを投げいれたり。
そして毎日通ううちに、クレソンは決まった時間になるとソワソワしだし、アンジェニカの姿を見つけると尻尾を振って近づくようになった。
「こりゃ、アンジェニカ様の作戦勝ちっすかね」
エブソンは呆れ顔で、アンジェニカに腹をなでられているクレソンを見おろす。
「作戦だなんて。私は、ただ、クレソンと楽しく遊びたかっただけですよ」
「その言葉はまったく信用できないんすけど」
黒闘牛の骨は魔道具部で貰ってきたと聞いた。黒闘牛の骨はなかなか手に入るものではないため、研究員たちが簡単にくれるとは思えないのだが、いったいアンジェニカはどんな手を使ったのか。
それから少しすると、なぜかクレソンの体にぴったりサイズのハーネスを着けて、背に跨るアンジェニカがいた。そのとんでもない状態に呆然とするエブソン。
「アンジェニカ様、何してるんすか……。魔獣を馬代わりにするなんて聞いたことないっすよ」
しかし、アンジェニカはそんなことお構いなしで、「とっても格好いいわよ」とクレソンの背中をなでている。クレソンはまんざらでもないらしく、ピンと耳を立て、顔がやたら得意げだ。
「まさか、最初からこれが目的っすか?」
「違いますよ。ただ、クレソンと仲良くなっただけです。ねぇ、クレソン?」
すると言葉がわかっているのか、うぉふ、とクレソン。
アンジェニカはクスッと笑った。
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