コミックス4巻発売お礼ss:エルンスト・シュヴァルの恥ずかしい一日
「あの、ちょっといいかしら?」
「はい?」
騎士団棟の玄関を歩いていたソフィアは、突然呼び止められ振り返った。
そこには長い黒髪の美しい女性が立っている。
小柄で可憐な、まさに貴族令嬢という感じの出で立ちだ。
「こちらの方に用事があって、良ければ案内していただきたいのだけれど」
「ええと、どなたに……」
「エルンスト・シュヴァルですわ」
その名前を耳にしたソフィアは、思わず「ひえっ」と息を吞む。
「だ、団長、ですね……。今の時間でしたら団長室にいると思いますので、ご案内いたします……」
「ふふ、ありがとう」
一瞬、不審者の可能性も頭をかすめたが、女性の胸元には入館証替わりの徽章が輝いていた。騎士団領内に入るには色々と厳しいチェックがあるため、間違いなく正規の関係者だろう。
団長室に続く長い回廊を先導していると、女性が楽しそうに話しかけてくる。
「でも驚いたわ。こちらには何度か来たことがあったけど、女性の騎士をお見かけするのは初めてだったので」
「あ、はい。多分、私だけではないかと……」
「まあ、そうなの! きっとたくさん努力なさったのね」
「努力というか、ゴリラ押しと申しますか……」
きゃっきゃとはしゃぐ女性の様子に、ソフィアは曖昧に笑みを返す。
やがて団長室に到着し、ソフィアは緊張した面持ちで扉を叩いた。
「失礼いたします、ソフィア・リーラーです。お客様をお連れいたしました」
すぐに返事が来て、重たい扉をそろそろと押し開ける。
中には執務机に向かう騎士団長・エルンスト。
そして仕事の話に来ていたのであろう、ルイが近くに立っていた。
(ル、ルイ先輩……!)
予期せぬルイの姿に、ソフィアの心臓はどきりと音を立てる。
だがそれらの動揺を一切出すことなく、女性をエルンストの前まで案内した。
「団長、こちらの方がご用事があると」
「……ご苦労だった」
「わたしからもお礼を言うわ。ソフィアさん、だったかしら。お仕事の邪魔をしてごめんなさいね」
「い、いえ……」
眉間に縦皺を刻んでいる団長と、愛らしい笑みを浮かべる小さな女性。そんな対照的な二人をソフィアが見つめていると、女性の方が「あら、ごめんなさい」と口元を押さえた。
「わたしったら、自己紹介もしてなかったわね。わたしはサーシャ・シュヴァル。この人の妻です」
「お、奥様⁉」
ご家族だろうとあたりはつけていたが、てっきり娘さんかと思っていた。驚きが思わず顔に出てしまったのか、団長が静かにこちらを睨みつける。
「何か、問題が?」
「い、いいいえ! とんでもございません!」
「ちょっと、こんな可愛い子をそんな怖い顔で威嚇しないでちょうだい! だいたいあなたはいつも愛想がなくて怖がられているんだから、もう少し部下に対して優しく振舞うようにって言っているのに――」
(ひ、ひいいい……)
屈強な騎士たちの頂点である騎士団長。
そんな彼が、ソフィアより小さな女性からがみがみと怒られている。
こっそりルイの方を見ると、彼もまたなんとも言いがたい顔で苦笑していた。
「……分かった、分かったからもういいだろう」
「あら、またそうやって誤魔化す気? 騎士団にやっと入ってくれた女性騎士なんだから、あなたが先頭に立ってフォローすべきでしょう。結婚してもう十五年は経つっていうのに、あなたが考えていることは本当に分かりにくくて――」
「お、お二人はご結婚されて、長いんですね……」
これ以上の言い争いを見るのが耐えきれず、ソフィアは思わず口を挟む。するとサーシャがぱあっと華やかに笑った。
「そうなの! とはいっても、よくある政略結婚なんだけどね」
聞けば二人が出会ったのは、まだ互いに十代前半のことだったという。
だが当時、遊びたい盛りだったサーシャは、家同士が決めた無愛想な婚約者のことをあまり良く思っていなかったらしい。
「こっちが気を遣って話しかけても『ああ』『そうですか』としか言わないし、可愛いドレスを着ても一言も褒めてくれないのよ? 何か面白い話をしてってお願いしても、剣の話か飼っている馬の話ばっかりで」
見た目はたいそう良かったが、騎士団に入る準備をしていたとかで、髪を短く刈っており、服装もいつも地味で簡素なものばかりだった。
貴族の結婚だから仕方ないとはいえ、こんなつまらない男と一生共に過ごさねばならないのか――と若き日のサーシャは人生を諦観しかけていたそうだ。
「でもある日、二人で湖に出かけたの。そこで――」
いまいち会話が盛り上がらない二人を心配して、サーシャの両親が『一度二人だけで出かけてみては』と勧めてくれた。だが馬車の中でもエルンストはひたすら押し黙ったままで、地獄のような移動時間が続いたという。
目的地に到着してからもたいした話題はなく、サーシャはさっさと帰ろうと足早に回っていた。
すると突然、足首に激痛が走った。
「わたし、毒蛇に噛まれてしまったの。びっくりするくらい腫れてて、痛くて。怖くて頭の中が真っ白になってしまったのよね」
死ぬかもしれない、とサーシャは蒼白になって震えていた。
だが次の瞬間、隣にいたエルンストが突如――純白の馬に変身したのだ。
「もうね、この世のものとは思えないほど綺麗だったわ。最初は『馬の神様』が現れたのかと勘違いしたのよ。でもけぶるような睫毛の下から見えた目が、透き通った青色で。だからすぐに『あ、この人だわ』って気づけたの」
彼はサーシャに向かって「乗りなさい」と命じた。
「馬なんて乗ったことありません、って言ったんだけど、変に歩き回って毒を広げたくない。絶対に落とさない。たてがみでも耳でも、好きなところを摑んでいいからって、それはもう必死で。わたし、その時初めて『この人、こんなに喋れるのね』って驚いたのよ」
結果、エルンストの俊足のおかげで、サーシャは大事にいたらずに済んだ。
そこでようやく彼が『馬の神』に加護されており、さらにその加護が抜きんでて強いため、馬自体に変化できるという話を耳にしたそうだ。
「その時に走った感触がもうね、ほんっとうに最高だったのよ! もちろん、足はずっと痛かったんだけど、普段の自分からは想像も出来ないほど高い視界で、耳元を冷たい風がビュンビュン走って。この世界に、こんな楽しいことがあったのねって」
その日以降、サーシャは社交界で遊ぶのをぱったりと止めた。
可愛いだけのドレスも着なくなり、代わりに丈夫な乗馬服を買い込んだ。
そしてエルンストに、乗馬を教えてくれるよう頼んだのだ。
「そうやって気づいたら馬――というか、この人のこと、大好きになっていたのよね。ほら、馬って喋らないし、最初はちょっと素っ気ないところがあるけど、仲良くなってくるとすり寄ってきたり、可愛いところがいっぱいあるじゃない? この人も同じなんだって思うと、もうたまらなく愛しくなっちゃって」
「は、はあ……」
「でも馬は素直だけど、この人は素直じゃないって言うか……。時々、また変身して乗せて欲しいってお願いするんだけど、ものすごーく頼まないとしてくれなかったりとか。でもそのわりにわたしが他の馬に乗ると、あとからその馬のところに行って、何か険しい顔でぶつぶつ怒っていたりして――」
「分かった、分かったからサーシャ、それ以上はやめてくれ」
沈黙を貫くかと思われていた団長が、ようやく待ったをかけた。
顔色はいつものままだが、眉間の皺がかつてないほど深くなっている。
「ソフィア・リーラー、ここまでの案内に礼を言う。ルイ・スカーレル、悪いが続きは後日話をさせてくれ」
「承知しました」
ルイとともに団長室をあとにしようとする。
するとサーシャが、そんな二人に向かってにっこりと微笑みかけた。
「そんなわけだから、あなたたちも頑張ってね」
「えっ?」
「大変なことも多いけど、同じくらい楽しいことがいっぱいあるわ――『結婚』って」
そう言うとサーシャはひらひらと小さく手を振った。
失礼します、と頭を下げて扉を閉めたあと、ソフィアがおそるおそる顔を上げる。
「……もしかして、バレているんでしょうか」
「いや、そんなはずは……」
顔を合わせたあと、二人はなんとなく目をそらす。
だがルイは視線を戻すと、そっとソフィアの手に自身の指を絡めた。
「ル、ルイ先輩⁉」
「大丈夫だ。この時間、ここには人が来ないから」
なんだかとても悪いことをしている気持ちになり、ソフィアは赤面した顔を伏せる。
ルイの大きな手のひらに、心臓の大きな音が伝わってしまいそうだ。
「幸せそうだったな。あのお二人」
「は、はい……」
「俺たちもいつか――」
やがてルイが繋いでいた手をぱっと離した。
「引き留めて悪かった。さあ、仕事に戻ろう」
「あっ……」
先に歩き出したルイの背中を、ソフィアは寂しそうに見つめる。
次に気づいたときには、彼の制服の裾を摑んでいた。
「……ソフィア?」
「す、すす、すみません! でもあの、最近あまり会えていなかったので、偶然でも、嬉しくて……」
「…………」
「わ、私、少し前に訓練が終わって、あと学園に帰るだけで……。先輩はやっぱりその、お忙しい感じでしょうか……」
何を言っているんだろう、とソフィアの頭の中がぐるぐると回る。
だがルイは嫌な顔一つせず、柔らかく微笑んだ。
「いや。団長からは後日と言われたから、特に急ぎはないな」
「で、でしたらあと……少しだけ、一緒にいてもらえないでしょうか……」
返事よりも先に、振り返ったルイがソフィアの手を取る。
再び真っ赤になるソフィアに向けて、ルイが嬉しそうに目を細めた。
「ああ。……喜んで」
誰もいない、あと少しの間だけ。
二人は廊下のカーテンの陰で、こっそりと笑い合うのだった。
(了)
コミックス4巻発売記念ssでした!
奥さんは結婚後も「この人、白馬の王子様なの♡」ってのろけていそうです。












