コミックス2巻発売お礼ss:シン・クヴァレの騒がしい一日
海事隊隊長シン・クヴァレは、白い天井に映る波紋を眺めながらぼうっとしていた。薄金の髪と色素の薄い碧眼が、水面越しにキラキラと輝いている。
(……)
浴室に置かれた巨大なガラス製の浴槽。
特注したそれはシンが大の字になっても入れるほど大きく、実際彼は冷たい水を張ったこの浴槽に、頭の先から足の先まで深く浸かって沐浴するのが日課と化していた。
一度そのことを陸上隊隊長・ヴィクトルと、射撃隊隊長・アーシェントに話したことがあるが、ヴィクトルからは「俺は無理だな! 風邪ひく!」と一蹴され、アーシェントからは「もうそれ水槽じゃん?」と言われて以来、もう二度と誰にも教えないと決めた。
(また寝てた……そろそろ起きるか)
ざぱっと音を立てながら上体を起こす。
わずかに跳ねた髪の端から透明な雫がぽたぽたと落ち、シンはその水滴が作り出す水上の円環を無言で見つめていた。だがすぐに立ち上がると、緩慢な動作で傍に置いていたタオルを手に取る。
全身と髪に残った水分を適当に拭き、下だけ穿くとタオルを深く被ったまま厨房へ。氷水を入れた桶で冷やしていた小瓶を取り出すと、足りなくなった水分を補うかのようにこくっこくっと飲み干した。
(一カ月ぶりの休み……何しよう)
ヴィクトルなら昼間っから酒場に、アーシェントなら女性と遊びにといったところか。だがシンは酒にも女性にも興味がなく、しばしぼーっと立ち尽くしたあと、買うだけ買って積んだままになっていた本のことを思い出した。
(やることないし、あれを片付けるか)
そこでようやくわずかな空腹感を覚える。戸棚を覗き込んでみたものの、先ほど飲んだお気に入りの水の備蓄以外はなく、シンは整った眉毛をきゅっと寄せた。
「仕方ない……食べに出よ」
身支度を整え外に出ると、太陽がほぼ真上に位置していた。
なおも上がりそうな地表の温度を肌で感じつつ、シンは既に疲れ果てた様子で王都の大通りへと向かう。人ごみを避けるように、裏路地にひっそりと構える馴染みの店に入ると「水とサラダ一つ」と店員に注文した。
すぐに澄んだ氷水の入ったグラスと、大量の葉野菜と海藻を盛ったボウルが運ばれてきて、シンはそれに黙々とフォークを差し入れる。しゃきしゃきとした瑞々しい歯ごたえと、かすかに香る磯の匂いがたまらない。
(やっぱりこの店は美味しい……何より水がうまい)
以前一度だけ、隊長格二人を連れて来たことがあった。
だが「肉、肉がないだと⁉ 俺は何を食えばいいんだ⁉」「オレうさぎになった気分~」と騒がれて以来、もう二度と誰も連れて来ないと決めた。
ボウルはあっという間に空になり、シンは意外と空腹であったことをようやく自覚する。お代わりの水をもらおうか、少し重めに小エビのフリッターでも頼もうかと逡巡していると、大通りからにぎやかな子どもの声が響いてきた。
なんとなく目を向けると、赤い髪を一つに縛った少女が子どもたちに取り囲まれている。
「あーっゴリラの姉ちゃんだ! あれやってよ、樽片手で持つやつ!」
「それより三階まで飛ぶやつがいい!」
「あのびゅーんって走るやつはー?」
「こーらあんたたち! 騎士様の邪魔しないの! すみませんねえ騎士様、お休みなのに手伝ってもらっちゃって」
「い、いえ、特に急ぎの用事もないですし」
(あれは……)
ぼんやりとした記憶の束から、従騎士の入団式がすぐさま再現される。あの時前列に立っていて団長のエルンストから注意されていた――と同時に入団者リストにあった『ゴリラの加護』という特記事項をシンは思い出した。
(ソフィア・リーラー……。そうか、あれが『ゴリラ』か)
正騎士になったとしても、自分がリーダーを務める海事隊にはまず配属されないだろうと踏んでいたから、そこまで意識していなかった。改めてよくよく観察するも、手足も細いし筋骨隆々なわけでもない。そこらにいる女性と本当に何も変わらない見た目だ。
おまけに今は、非番だというのに街の人々の頼みごとを引き受けているらしく――恐縮した様子でぺこぺこと頭を下げる彼女を見て、シンはわずかに目を眇めた。
(休みの日まで、物好きだな……)
海に入る訓練は好きだが、シン自身は特に仕事が好きなわけではない。人より恵まれた加護と、少々癖のある隊員たちを指揮するのに最適だと評価された結果、史上最年少の隊長という肩書きは得たものの――進んで誰かを助けたいとか、守りたいと思って動いたことはどれほどあるか。
(まあ『ゴリラの加護』なんてもらったら、どんな奴でも舞い上がるよな。……ぼくにはいっさい関係ないけど)
お代わりした二杯目の氷水を飲み下すと、シンはこれ以上外気温が上がる前に帰ろうと席を立った。だがその直後、港の方で大きな悲鳴が上がる。
(何だ?)
わずかに悩みつつも、とりあえず騒ぎの方へと踵を返す。岸壁にはすでに多くの人だかりが出来ており、シンは離れた位置から背伸びして海面を見た。どうやら子どもが落ちたらしく、その引き上げに難攻している様子だ。
「おい、頑張れ! ロープを掴め!」
「無理だ、誰か海に入って助けるしか」
「馬鹿言うな、この時期はひれに毒のある魚がここらをうようよしてるんだ! 体の大きい大人じゃ、それこそ致命傷だよ!」
そんな言い争いをしているうちに、潮流のためか子どもはどんどん沖に向かって流されてしまう。シンの脳裏に自宅に残してきた本の山がよぎるが、はあと息を吐き出すと襟元をくつろげた。
だがシンが動き出すよりも早く、とたたたっと小気味よい足音が桟橋を駆け抜け――そのままばしゃん、と遠くで大きな水柱が上がる。
「――⁉」
普段めったなことでは表情を崩さないシンが、大きく目を見開くと慌ててその正体を確かめる。やがてぷはっと海面から顔を覗かせたのは、先ほど市民からいいようにこき使われていたソフィア・リーラーだった。
彼女は流れてきた子どもを受け止めると、水面下の魚を気にしながら懸命に岸に戻ろうとする。人々はその様子を見てわあっと歓声を上げたが、シンだけは一瞬で蒼白になった。
(馬鹿……何してる⁉)
シンの焦燥をよそに、ソフィアはその後も何とかして泳ぎ帰ろうと画策していた。だがいっこうに潮の流れに逆らうことが出来ず、二人揃ってさらに離岸していく。
異変に気付いた人々が不安そうな声を上げるのを耳にしたシンは、苛立ちを全開にしながら前に立つ人を押しのけた。
「どいて。邪魔」
そのままずんずんと先頭に出ると、つま先に力を込めとぷんと海に飛び込む。最小限の水跳ねだけを残し、シンは着衣のまま海の奥深くへと沈んでいった。
(……)
ある地点まで下りたところで、うっすらと瞼を開ける。
薄い青色の瞳が仄暗い海中で輝き、まるで彼自身が深海生物になったかのようだ。
(あそこか……)
銀色の小さなあぶくを身に纏い、薄金の髪が一拍遅れてたなびく。シンは遥か遠方に見えるソフィアたちの姿を補足すると、飛び立つ鳥のような滑らかさで水中を移動した。しかしその途中、蠢く魚群と鉢合わせる。先ほど話に上がっていた毒を持つ魚だ。
シンはいったんその場にとどまると、すうっと目を閉じた。
(……殺さない程度に、量を抑えて……)
直後彼の背中から、真っ白い翼のような光が何本も出現する。
それらは誘蛾灯のようにぼんやりと輝いており、シンは再び瞳を開けるとその両翼をぶわっと振りかざした。すると獲物を狙っていた魚たちが、何故かゆっくりと海底に沈んでいく。
(数分もすれば戻るはずだ。その間に――)
落ちていく魚たちを見送りつつ、シンはすばやく海中を駆け上るとソフィアたちの傍へ顔を出した。突然現れたシンに「隊長⁉」と声を上げたソフィアを前に、憮然とした表情で口を開く。
「早く。腕掴んで」
「え、は、はい!」
シンの腕にソフィアの小さな手が触れ、そろそろと力が込められる。どうやら握りつぶされはしないようだと確認しつつ、シンはいとも簡単に岸辺へと泳ぎ戻った。
びしょぬれになった子どもと母親が再会し、ソフィアともども十分すぎるお礼を言われたあと、ようやく解放される。ほっとした様子で胸元に手を当てているソフィアを見て、シンがぽつりと呟いた。
「どうして海に入ったの」
「え?」
「『ゴリラの加護』は泳ぎには適さない。むしろ今までより動きづらいはずだ」
戦闘系最強と言われる『ゴリラの加護』だが、実は水中戦ではあまり効力を発揮しない。それは何より「ゴリラが泳げない」という事実からきているのだが――ソフィアはシンの進言を何度か反芻したあと、ようやくはっと目を剥いた。
「そうだったんですね……!」
「……は?」
「通りで泳げないと思いました。いえ、今までも泳げたかと言われると、あまり自信はないのですが……」
「ちょっと待って。じゃあどうしてあんな勢いよく飛び込んだの」
「そ、それは、とにかくなんとかして助けないといけないと思いまして……」
その返事に、シンはぱちぱちと目をしばたたかせた。まさかそんな当たり前のことすら知らずに『ゴリラ』を名乗っていたのか。それ以上に――
(何も考えずに飛び込んだのか、この子……)
ゴリラの加護があるからという驕りでもなく、自身の泳ぎが得意であるという自負でもなく。ただそこに溺れかけている人がいるから助けに行ったというのか。
(信じられない。ヴィクトルクラスの大馬鹿だよ、これじゃ)
目の前のびしょびしょのソフィアを見ていると、『騎士団長最有力候補』というキラキラしい文言が、がらがらと音を立てて崩れていく。だが赤い髪を艶々とさせた彼女は、嬉しそうにシンに向かって頭を下げた。
「クヴァレ隊長、ありがとうございました!」
「別に。それよりもう少し、自分の加護について勉強した方がいいよ」
「き、肝に銘じておきます!」
びしっと敬礼をとった彼女があまりに真剣で、シンは思わず「ふっ」と小さな笑いを零した。結んだ髪の端から、いまだにぽたぽたと海水が零れ落ちていることにも気づかないのを見て、シンはそっと彼女の髪を手に取る。
「あ、あの、隊長?」
「今日はもういいよ。さっさと水で洗わないと大変なことになるから」
そう言うとシンはぎゅーっとポニーテールの先を握りしめた。ぼたぼたぼたっと水滴が跳ね、ソフィアは「ひゃあ⁉」と飛び上がる。その様子がおかしくて、シンは再び込み上げた笑いをかみ殺すのだった。
翌日。
騎士団長エルンストの部屋に入ると、先に所用で訪れていたアーシェント・アードラーが振り返った。
「シンちゃーん! 昨日、人助けしたんだってェ? しかも『ゴリラ』の子と一緒に」
「……」
「どうだった? 見た目すっごい普通だけど、中身は意外としっかりしてるっていうか……おーい聞いてる?」
「聞いてない」
すると扉を開けて、エルンストとヴィクトルが姿を見せた。
「おっシン! 久々の休みはどうだった! 少しは遊んだか~?」
「団長、これ報告書です」
「ああ」
「おい、無視すんなよ!」
うざったく絡んでくるヴィクトルをスルーしていると、報告書を手にしたエルンストがシンに話しかける。
「そういえば『ゴリラ』と会ったようだな。どうだった」
「別に。特に興味はありません」
「そうか。まあ海事隊には向かない加護だからな」
「……」
そこでふと、びしょぬれになったまま笑うソフィアの姿を思い出した。確かに彼女の加護はうちには適さない。訓練で多少泳げるようになったとしても、所属している隊員たちの足元にも及ばないだろう。だが――
「……ですがもし彼女が正騎士になって、ぼくの隊を希望するのであれば――その時は喜んで受け入れますよ」
シンの意外な返答に、エルンストはわずかに眉毛を上げた。すると同じくそれを聞きつけたアーシェントとヴィクトルが左右からそれぞれがしっとシンの肩を組む。
「えっなに⁉ シンちゃんなら『うちにはいりません』とか言うかと思ったのに」
「おっ、なんだ恋話か⁉ お兄さんが相談に乗ってやろうか!」
「いりません。邪魔です。失礼します」
「ちょっとシンシン~!」
酒奢るからさあ~、じゃあ肉も食おうぜ肉! というかしましいやり取りを繰り広げながら、騎士団の隊長格たちが揃って部屋をあとにする。一人残されたエルンストはシンからの報告書に目を通したあと、ふっと微笑んだ。
(『ゴリラの加護者』か……あのシンが評価するとは珍しい)
自分も会ったのは、入団式とクライヴ殿下の護衛任務を言い渡した時だけだ。これはいつかその成長をこの目で確認しに行かないとな――と感慨にふけっていたエルンストだったが、そこでようやく扉の方に目を向ける。
「……アーシェントは何しに来たんだ?」
数分後、廊下の端でアーシェントが盛大にくしゃみをしていた。
(了)
お礼ssその②でした!
もっとシン隊長が見たい人はコミックス1巻がおすすめです(ダイマ)












