第四章 きみの左指に約束を刻む
まもなく、ソフィアが騎士団に入って一年を迎える。
十月の第一ケライノ。
ソフィアは目の前に広がる巨大図書館に、目をキラキラと輝かせていた。
「す、すごい……読みたかった本がこんなに……!」
ほわあ、と声にならない感動を浮かべていると、隣にいたルイがくすりと笑みを零した。見慣れた騎士服ではなく、シャツにジャケット、パンツというラフな格好だ。ただしまだ手の怪我は完治していないらしく、包帯が痛々しく巻かれている。
「本が好きだと聞いていたから、きっと喜ぶと思って」
「はい! ありがとうございます!」
ここは王都からバスで一時間ほどの距離にある学術都市・リトロ。
多くの学者や研究者たちが住むこの街は、アウズ・フムラにおける『知の要』と呼ばれていた。その呼称にふさわしく、王都にはない専門書や論文、研究報告などがこの都市では自由に閲覧することが出来る。
なかでも有名なのが国内最大と言われる図書館で、蔵書の数は五百万を超えると言われていた。
はやる気持ちを抑えつつ、ソフィアはそろそろと本棚に目を向ける。
以前愛読していたが、どうしても続きが手に入らなかったシリーズ小説に、大好きな画家による装丁の絵本。まだ学校に馴染めなかった小等部の頃、家から持って来てぼろぼろになるまで読み込んだ冒険譚などに引き寄せられていると、ルイが本を片手に声をかける。
「色々見たいものがあるだろう。俺は向こうで読んでいるから、ゆっくりな」
「あ、ありがとうございます!」
周囲に聞こえないような小声でささやくと、ルイはひらひらと手を振って閲覧台の方へと歩いていった。その背中をぽうっと見送っていたソフィアだったが、ようやくぼんと顔を赤らめる。
(ル、ルイ先輩と、久しぶりのデート……!)
――リーンハルト王太子らの事件後、問題解決につとめた実績や、夏季休暇をすべて返上して任務にあたったことなどが評価され、ソフィアたちに三日間の特別休暇が与えられた。
せっかくだからどこかに出かけたい! という気持ちは二人とも同じだったようで、ソフィアが口にするよりも先に、ルイからリトロへ行かないかという提案があったのだ。
リトロはディーレンタウンからかなり離れており、ソフィアも名前こそ知っていたものの訪れたことはなかった。だがルイと一緒ならば心強い、と早々に今回のデート先が決定したのである。
もちろんたくさんの蔵書に出会えるという点でも素晴らしいのだが、王都で二人きりで過ごしているとディーレンタウンの生徒たちから見つかる可能性がある。その点でも王都から離れたリトロという選択は、大変ありがたかった。
(先輩、私が気を遣わないように……相変わらず優しいな)
ソフィアはそのままちらりと自身に視線を落とす。
レースがあしらわれた白のスカート。肘先までの濃紺のブラウス。そして首元には赤い宝石のネックレス。ソフィアは姿勢を正しつつ、肩にかかる髪をなんとなく整える。
(お、おかしくなかったかな……)
髪型は一週間以上かけて練習した。
途中ソフィアのあまりの不器用さに、見かねたカリッサとアレーネが教えてくれたこともあり、それなりに可愛らしい髪型になっている……はずだ。
(なんだか不思議……私が誰かのために、可愛くなろうと頑張っているなんて)
一年前。ソフィアは埃まみれの倉庫の中で、ルイを思って涙することしか出来なかった。あの時に感じた後悔が、今ようやく少しだけ救われたような気がして、ソフィアは胸の前で片手を握る。
(これもゴリラの神のおかげ……かな)
腕を組み、うほうほと誇らしげなゴリラの姿が脳裏をよぎり、ソフィアはたまらず苦笑した。
その後ソフィアは、夕方の閉館時間いっぱいまで図書館を満喫した。ルイも読みたかった本を読破出来たらしく、二人は玄関口でほう、と揃ってため息をつく。
「はああ……素晴らしかった……」
「良かった。ここまで満足してもらえたなら、連れて来た甲斐があったな」
「はい! 今日は本当にありがとうございました!」
ソフィアは深々と頭を下げると、王都に戻るバス停に向かおうとした。だがルイはそんなソフィアの手を取ると、すたすたと逆方向に歩いていく。
「せ、先輩? バス停はあっちじゃ」
「悪いが、もう少しだけ付き合ってくれ」
そう言われて連れてこられたのは、外観だけで高級だと分かるレストランだった。歴史を感じる荘厳な佇まいに石と化すソフィアに対し、ルイは臆することなく扉を開けると、正面の給仕長に声をかける。
「失礼。予約をしていたスカーレルですが」
「ようこそお越しくださいました、スカーレル卿。どうぞこちらへ」
(よ、予約⁉)
驚くソフィアをよそに、二人は奥にある個室へと案内された。
中央のテーブルには、真っ赤なテーブルクロスが蝋燭の灯りに照らされており、その大人びた迫力にソフィアの鼓動はいやおうなしに早まっていく。
椅子を引かれ、恐る恐る腰かける。ただ座っているだけなのだが、うっかり変な力をかけて破損させはしまいかとソフィアがびくびくしていると、給仕係から真っ白な表紙に金の箔押しがされたメニューを渡された。
「好きなものを頼んでくれ」
「え、で、でも」
「久しぶりのデートだからな」
デート、という単語に赤面したソフィアは、とりあえずメニューを開いてみる。だがどうしたものか、書かれているメニューが半分以上分からない。ソフィアも一応伯爵家の人間なので、こうした高級レストランに来たことはある――が、その時は両親に任せきりで、料理名を気にしたことすらなかった。
(ユイットル? ブルギニヨン? うう、こんなことなら、もっと勉強しておくんだった……!)
新しい動物神の名前みたい……と現実逃避しつつ、ソフィアは完全に硬直する。すると同じく向かいでメニューを見ていたルイが、ふうむと手を顎に添えた。
「よく分からないな」
「え?」
「いやその、リトロに行くと言ったら、騎士団の先輩方にこの店を紹介されたんだが……見たことのない料理名ばかりでちょっと驚いた」
「で、でも先輩は、こうしたお店にも慣れているのかと」
「家族ではよく行くが、父に任せてばかりだからな。……だめだ、もう少し勉強してくるべきだった」
はにかむように苦笑するルイを見て、ソフィアは何度か目をしばたたかせた。張り詰めていた緊張がほろりと崩れ、思わず口元が緩む。
「あの、すみません、実は私もよく分からなくて」
「そうなのか? じゃあ、何か適当に頼もう」
そう言うとルイは給仕係を目で呼びつけ、何やら細かく注文を伝えていた。やがて食前酒と前菜が運ばれて来る。
「コースを頼んだが、大丈夫だったか?」
「は、はい!」
最初はおっかなびっくり皿と向き合っていたソフィアだったが、一つ口に運ぶとすぐに顔をほころばせた。
「お、美味しいです」
「良かった。リトロでは一、二を争う店らしい」
その後もスープにサラダ、魚料理と運ばれてきて、ソフィアはあますところなく綺麗に堪能した。実家の料理やディーレンタウンの学食、騎士団の食堂も好きだが、それとはまた別格のおいしさである。
料理の皿が入れ替わる途中、ルイがそういえばと微笑んだ。
「その洋服、着てくれたんだな」
「あ、はい! お、おかしい、でしょうか……」
「いや、よく似合ってる。それにネックレスも。髪型は……俺は女性の装いについて詳しくは知らないが、きっとすごく時間がかかったんじゃないか?」
「い、いえ、そんな」
「その、……すごく可愛い、と思う」
(あああありがとう! カリッサ! アレーネ!)
当然ですわ! と手の甲を顎に添えながら高笑いする友人の幻覚に、ソフィアは心の中で両手を合わせた。気づかれなくてもいいと思っていたが、やはり気づいてもらえるのは純粋に嬉しいものだ。
本日の課題がすべて終わったかのような充足感のなか、コース最後の柔らかく煮込まれた牛肉の料理が運ばれて来る。メインディッシュを食べ終え、幸せそうな顔で余韻に浸っているソフィアを見て、ルイが穏やかに目を細めた。












