第三章 9
肩口から滲み出る血を手で押さえながら、ジルはふうう、と息を吐き出した。眼前のクライヴを睨みつけたかと思うと、もう一方の腕を振り上げる。
しかしクライヴは軽くそれを弾き飛ばすと、続けざまにジルの横っ面を殴りつけた。とっさに鱗を張り巡らせたジルだったが、わずかにクライヴの力が上回ったのか、びしいと鋭い音を立てて頬に放射線状のひびが入る。
「――ッ!」
ジルはその衝撃を受け、窓際まで吹き飛ばされた。目の前で繰り広げられる攻防を、唖然としたまま見つめるソフィアに、クライヴがようやく話しかける。
「ソフィア。大丈夫?」
「は、はい……で、殿下こそ、大丈夫なんですか?」
「うん……でも、ごめんね」
ごめん? と突然の謝罪にソフィアはぽかんとする。するとソフィアの目の前で、突然クライヴの変貌が始まった。
灰色だった髪が、毛先の方からじわりと黒く変色し始め、半分ほどを染め上げた。白かった肌は浅黒くなり、黒い瞳には金色の輪が浮かび上がる。
そこに、かつての穏やかだったクライヴの面影はなかった。
「――ずっと、嘘をついていた」
「クライヴ、殿下……?」
「わたしの本当の加護はいたちじゃない……『ラーテル』なんだ」
初めて聞く神の名に、ソフィアは返す言葉を失っていた。そんなソフィアにクライヴは切なく微笑む。
「ソフィア。すぐにここから逃げて」
「で、ですが……」
「『ラーテルの加護』は強力だ。……わたしですら、抑止できない破壊衝動に襲われる」
「……!」
「ジルはわたしが必ず倒す。だから君は、すぐにここから離れるんだ」
そう言うとクライヴは、起き上がろうとするジルに向かって一足飛びに駆けだした。ジルもとっさに防御の構えをとるが、加護の力を覚醒させたクライヴに反応が追い付いていない。
「クライヴ! 貴様、わざと『いたちの神』などと……!」
「騙していたのはお互い様でしょう」
鋭利な鉤爪が、無遠慮にジルの鱗を引き剥がす。じわじわと削られていく体に、ジルもいよいよ恐怖を感じ始めたようだった。だがクライヴは斬撃の手を休めることなく、獰猛にジルを追いつめていく。
「や、やめろ! わかった、ちゃんと言う! 罪を認める! だから!」
しかし、ジルがどれほど懇願しても、クライヴの耳には一切届いていないようだった。その光景を目の当たりにしていたソフィアは、懐のガラス瓶に服の上からそっと手を添える。
(逃げなきゃ……これがあれば、ジル殿下の罪は証明できる……)
だがソフィアは、そこから動くことが出来なくなっていた。
怖いのではない。
今ここを離れてしまえばクライヴが――どこか、遠くに行ってしまう気がしたからだ。
「クライヴ! やめろ! やめてくれ‼」
「ロバート兄上も、そう思っていただろう、よ」
すでにジルは戦意を喪失しており、手のひらを向けたまま膝を屈していた。だがクライヴは前髪の間から、金の輪が浮かぶ虹彩を覗かせると、にたりとした愉悦を浮かべる。
ひっと息を吞むジルに向けて、クライヴはすばやく腕を振り上げた。
(――ッ!)
その瞬間、ソフィアは駆け出し――クライヴを背中ごしに抱き寄せる。
「だめです、殿下!」
「……!」
「それ以上はだめです! ジル殿下が‼」
ソフィアの絶叫に、クライヴは一瞬だけびくりと動きを止めた。
しかしすぐに激しくもがき始めたかと思うと、声にならない悲しい咆哮を上げる。その姿はまさに本物の獣のようだった。
(……っ! だめ、このままでは……)
ガラス瓶を守りながら、ソフィアは必死にクライヴを抑えつけた。だが錯乱状態に陥っているのか、クライヴは激しく体を揺するとソフィアを振り払う。
慌てて離れたソフィアの鼻先を、黒い爪先がかすめた。すんでのところで体を逸らし、ソフィアはなおも叫ぶ。
「殿下! クライヴ殿下‼」
だがソフィアの説得は届かず、クライヴは鉤爪を荒々しく振りかざした。やられるわけにはいかないとソフィアは必死に受け止めていたが、次第に防戦一方になっていく。
(どうしたら抑えられるの……!)
徐々にクライヴに押し込まれ、ソフィアは壁際に追い詰められる。クライヴはゆっくりと首を斜めに傾けると、その麗しい相貌でソフィアに微笑みかけた。その顔は今までのソフィアが知るどれよりも恐ろしく――ソフィアはガラス瓶だけは守り抜こうと覚悟を決める。
やがてクライヴの一閃がソフィアの頭上に振り下ろされた――が、突然間に割り込んだ何かによって、その衝撃は抑え込まれる。その見覚えのある背中に、ソフィアは目を見開いた。
「ルイ先輩……!」
「クライヴ殿下……何をなさっているんです……」
ルイは鉤爪の生えるクライヴの両手を、自身の手でぎしりと掴んでいた。指の股からは赤い血が流れていたが、ルイは一向に力を弱める様子がない。
「俺と語りたいと言ったのは嘘だったのですか? 同じ女性を好きになったのだと」
「……ウ、」
「彼女を傷つけるのではあれば、誰であろうと容赦はしない!」
そう叫ぶと、ルイはそのままクライヴを押し倒した。後頭部を強打したクライヴは、獣のような悲鳴を上げたが、いまだ荒々しく身を捩る。
そんなクライヴの片腕を、ルイが力の限り踏みつけた。そのままクライヴの顔の真横に、ダン、と長剣の切っ先を突き立てる。
「しっかりしろ! 加護に呑まれるな! それで俺の恋敵が務まると思っているのか!」
「……!」
部屋中の空気を震わせるようなルイの怒号に、クライヴははっと目を見開いた。
その瞬間、瞳に浮かんでいた金色の輪が細まり、ふつりと消える。同時にクライヴの全身から溢れていた恐ろしい威圧感がなくなった。室内にはルイとクライヴの不規則な呼吸だけが残り――やがて、いつもの調子でクライヴが微笑む。
「……まったく……とんでもないやつだな、君は」
「……殿下」
「でも……ありがとう。おかげでわたしは、大切なものを失わずに済んだ……」
そう言ってゆっくりと目を細めたクライヴの顔は、普段の穏やかな彼のもので――ルイはそれを確認すると、ようやくほっと肩を落とした。
やがて物々しい足音とともに、階下で騎士団員たちの声が響く。
(援軍! 良かった、これで……)
だが視界の端で何かが動き、ソフィアはすぐさま振り返った。
すると先ほどクライヴに散々痛めつけられたジルが、満身創痍の体を引きずりながら、必死に窓の鍵を開けているではないか。
「ジル殿下! 何を」
「引くんですよ。このまま捕まるほど、ぼくは愚かではありません」
わずかな両開きの隙間から、ジルはバルコニーに転がり出る。捕らえなくてはとソフィアは床を蹴って一息に駆けだした。だがジルはすでに手すりに背をもたれさせ、余裕めいた笑みを浮かべている。
「――それでは」
「待ちなさい!」
避ける時間も惜しいとソフィアは窓枠をぶち破りながら、バルコニーに飛び出した。だがジルはすでに、背をそらすようにしてゆっくりと落下を始めている。
(ここは三階。普通に考えれば、無事では済まない)
だが彼は蛇の加護者。
表皮を硬化させることで、この高さからでも平然と着地することが出来るだろう。
(ここまで来て、逃がすわけには――)
ソフィアは自ら身を投げ出す覚悟で、手すりの傍へと跳躍した。限界まで腕を伸ばしてジルの体を掴もうとする――がその時、二人の頭上から淡々とした声が落ちてきた。
「――逃がすと思うか?」
刹那、ソフィアとジルの頭上からひゅ、と何かが降ってきた。その何かは、目を見張るジルの頸をがしりと羽交い絞める。
「――ッ⁉」
(……えっ⁉)
ソフィアがそれを視認すると同時に、ジルは首根っこを掴まれたまま一気に地面へと引きずり落ろされた。その勢いはすさまじく、ソフィアは慌ててバルコニーから階下を覗き込む。
そこで見たのは叩きつけられた落下の衝撃で気絶しているジルと、彼に向かって銃口を突き付けている騎士団の面々。
そして、乱れた髪をふうと払っているエディだった。












