第三章 8
「最初は誰が『それ』を持っているか分からなかった。だが他の王太子候補に託している可能性が高いと踏んで、それぞれの家の使用人に刺客を忍び込ませた。だがどこにもロバートと関係するものはなかった」
(刺客って……もしかして)
その単語に、ソフィアはかつて街中での襲撃事件を思い出した。あの時は服の釦や顔の特徴から、エヴァンの手によるものだと結論づけていたはずだ。
しかしあれが――元々はジルの配下であり、調査のために潜入していた使用人だったとしたら。ジルの尖兵であることを気取られないため、わざとエヴァンの家の紋章を身に着け、クライヴの前に顔を見せていたのだとすれば……。ソフィアたちは、とんでもない勘違いをしていたことになる。
(じゃあ以前、アシュヴィンに尋ねられたエヴァン殿下は、本当に……)
ソフィアとルイが命からがら逃げだした一室での密談。あの時アシュヴィンの鎌をかけるような問いかけに、エヴァンは「何を言っているのか、理解出来ん」と答えていた。
あの時は自らの保身のため、しらばっくれていると思っていたが……エヴァンは本当に何も知らなかった可能性がある。
「そんな時、お前が候補として擁立された。……まったく、バジャー家はどれだけ可能性がなくとも、王太子の座を諦めることが出来なかったようだね」
「……」
「一方でぼくは、あれはロバートのはったりだったのだと考えるようになっていた。でもいつだったかな――パーティーで女性陣が噂していたんだ……『クライヴ殿下が素晴らしい宝石を兄上から引き継いだらしい』と」
もちろん看病の合間を縫って、疑われそうなものは処分していた。だがそんなジルの目から逃れ、突如現れた『ロバートの遺品』。当然、自身を断罪するために用意されたものだとジルは覚悟した。
だが当のクライヴはジルを責めるどころか――あまつさえ「一任する」と全権を委ねてきたのだ。やがてジルは、クライヴはまだその存在に気づいていないのでは、と確信し始めた。
「でも確かめようにも、こいつは絶対に宝石を表に出さなかった。普段あれだけヘラヘラしているくせに、ぼくの息がかかった女がどれだけ頼み込んでも、絶対に見せようとはしなかったんだよ」
「当たり前です。……本当に大切な人に渡す石ですから」
(……クライヴ殿下……)
手紙と一緒に残された、兄からの唯一の遺品。最愛の伴侶に託す宝石。それはクライヴにとって、心の底から大切なものだったに違いない。はっきりと言い切ったクライヴを見て、ジルはにやと片方の牙を見せた。
「だがようやく見つけ出した。女、それをぼくに渡せ」
「絶対に渡しません」
「だろうな」
するとジルは素早く銃を構えた。ソフィアはガラス瓶を庇おうと、とっさに腕の中に抱え込む。それとほぼ同時に、ルイがソフィアの前に立ちはだかった。
「――ッ!」
「先輩!」
銃弾はルイの顔をかすめ、頬からは一筋の血が流れる。ルイは長剣を抜きつつ、そのままジルに向かって走り出した。すばやく振り下ろされる斬撃。だがジルは再び鱗で左半身を覆うと、腕一本でそれを受け止めた。
「邪魔だ」
「――ぐッ!」
長剣を絡めとるように、ジルが体をひねる。ルイはとっさに柄から手を離したが、その隙をついて側頭部を強打された。どさりと倒れ込んだルイを見て、クライヴがソフィアに向かって吼える。
「ソフィア! それを持って逃げろ‼」
「はい!」
「――させません」
クライヴの言葉に従い、ソフィアはすぐさま踵を返した。しかしジルはゆらりと立ち上がると、そのままソフィアの背中に狙いを定める。
次の瞬間、恐ろしい跳躍力で襲い掛かった。
(――!)
絶対にこれだけは死守しなければ――とソフィアは内ポケットに入れたガラス瓶を手繰り寄せた。だが覚悟していた痛みはなく、直後大きな衝突音が響く。
慌てて振り返ると――首筋に毒牙を立てられた、クライヴの背中があった。
「殿下‼」
「っ……あ……」
肩口に深々と突き刺さった、二本の牙。ソフィアが瞬くうちに、クライヴの体はずるりと床にへばり落ちた。
「――まったく、馬鹿なことを」
「殿下……クライヴ殿下!」
「無駄ですよ。ぼくの持つ、最も致死性の高い毒を入れました。二度と起き上がることはない」
「……ッ!」
くす、とジルが微笑むのを見て、ソフィアはすぐに逃亡を再開した。出来ることなら、今すぐにでもみんなを助けに行きたい。だがここで自分が捕まってしまえば、すべてが水泡に帰してしまう。
すんでのところでドアノブに手をかける。だがその肘を激痛が走った。見れば制服の袖に焦げた銃創が走っている。
「――!」
「無駄だ。早く渡せ」
間を置かず、次は反対側の足に轟音が刺さる。ソフィアは必死に悲鳴を呑み込むと、ドアを破壊して階下へと逃げようとした。
だがその直後、背後から長い腕に抱きこまれる。
「――あ、ぐ……」
「このまま、瓶ごと壊してやりましょうか」
(だめ……意識が……)
ここまでか、とソフィアはいよいよ死を覚悟した。
だが耳元に落ちて来た肉を断つ音。続けてジルの力が弱まり、ソフィアは必死になって拘束から逃れる。ようやく顔を上げると、そこには残された左腕でナイフを握り、ジルの脇腹に突き立てているエヴァンの姿があった。
「エヴァン殿下!」
「……草食動物にも、いっぱしの矜持はあるんでな!」
「――くそ、が……邪魔を、するな!」
ジルは苛立ちをあらわにし、渾身の力でエヴァンを蹴り飛ばした。既に満身創痍だったエヴァンは、派手に床の上を転がっていく。
すると今度は、反対側からアイザックが飛び出してきた。足からはいまだ血が流れていたが、ジルの体を背後から羽交い絞めにする。
「ソフィア! 逃げろ!」
「うるさい!」
するとジルは、アイザックの首元を掴み、そのままズダンと前方へと打ち下ろした。あまりに一瞬のことにアイザックは受け身をとれず昏倒する。
「アイザック!」
室内に残るのは切れ切れとした呼吸と、短くうめく仲間たちの姿。起き上がれる味方はもう残っていない。そんな中、ジルは再びソフィアを睨みつける。その瞳は既に常軌を逸しており、完全に捕食者としての立場を明らかにしていた。
再び逃げようとしていたソフィアだったが――こくりと息を吞む。
(だめだわ……どこにも隙がない……こうなれば……!)
意を決したソフィアは背を向けることなく、ジルを真っ向から睨みつけた。そのまま靴裏で床を蹴ると、ジルに向かって殴りかかる。
(私が、倒すしかない!)
だがソフィアの腕と足には、それぞれ銃によるダメージが残っていた。おまけに胸元にあるガラス瓶も守りながら戦わなくてはならない。
ソフィアの力強い一打を、ジルは硬化した手のひらでいとも簡単に受け止めた。そのまま足でジルの横腹を狙う。だがこれもまたぬるりと躱されてしまった。
(打撃の手ごたえがまったくない! それになんて柔らかい関節……効いている感じが全然しない……!)
まさに本物の蛇のようなしなやかさで、ジルはソフィアの猛攻を受け流した。ガラス瓶を庇ったまま奮闘するソフィアを見て、ジルはふふと片方の口角を上げる。
「素晴らしい! さすが戦闘系最強と言われるゴリラの加護……。ですが今は、余計なものが足を引っ張っていますね」
「――ッ!」
ガラス瓶のあるあたりを掴まれそうになり、ソフィアはたまらず体のバランスを崩した。その好機をジルが見逃すはずもなく、ソフィアは胴体をしたたかに蹴りつけられる。どうにか懐は守ったが、ソフィアの体は勢いよく壁に激突した。
(こんな……相手がいるなんて……)
頭を打ったのか、視界がかすむ。ぼんやりと顔を上げるソフィアの前に、悠然とした姿で立つジルの影が映った。
「さあ、瓶を――」
その瞬間、ジルの短いうめき声が上がった。ソフィアは飛びそうになる意識を必死に呼び起こすと、何度も目をしばたたかせる。
(な、に? いったい、誰が……)
次第に人影が輪郭を形どり始める。
ソフィアの前にいたのはジル。
だが彼の肩を四本の鋭い何かが貫通していた。
「……お前、まさか……」
「ジル兄上……本当に、残念です」
ずりゅ、と鋭いそれが引き抜かれると同時に、ジルは再び強く呻いた。信じられないものを見るような目で背後にいた人物を凝視する。
「何故生きていられる……クライヴ!」
指先から伸びる黒い鉤爪。
その持ち主は毒で倒れたはずの――クライヴだった。












