第三章 7
床に倒れ込んだジルは、平然とした様子で立ち上がった。殴打される瞬間、鱗による防御をしていたのだろう。殴られた側の半身が、硬質化した薄片に覆われている。
クライヴの存在に気づいたジルは、さらに瞳孔を細くさせた。
「……どうやって、牢を抜け出したのです」
「屋根裏で気絶させられていたところに、彼が来てくれました。……まさか、リスに助けられるとは思いませんでしたよ」
(屋根裏⁉)
ソフィアは慌てて天井を見上げた。中央に無理やりこじ開けられたかのような穴が空いており、その奥には薄暗い空間が覗いている。
頭の整理が追いつかないソフィアに、ルイがようやく安堵の笑みを浮かべた。
「アーシェント隊長から連絡を受けて、急いで救援に来たんだ」
「では、他にも……」
「ああ。すぐに到着するだろう」
「――と、いう訳です。ジル兄上、おとなしく同行願えますか?」
丁寧なクライヴの言葉を、ジルは口を閉ざしたまま聞いていた。だがやれやれとばかりに首を振ると、にっこりと口角を上げる。
「まったく……あの兄にして、この弟ありか」
「……本当なのですか、ジル兄上。本当にあなたが、ロバート兄上を……」
「あなたまでそんなことを言うのですか? 先ほども申し上げましたが、そんな証拠はどこにもありません。あなたの兄上が亡くなったのは病によるものです」
「しかし、あなたは実際にアシュヴィンにも毒を……!」
「ぼくが『蛇の加護者』、そして毒蛇の能力を持っていることは認めましょう。ですがそのこととロバートの死には、なんら関係がない」
ジルの上瞼と下瞼が、揃って横に引き延ばされた。不気味な作り笑いを前に、ソフィアはゆっくりと思考を巡らせる。
(この態度……絶対に何かを隠している……でも確かにロバート殿下の死に関わっているかまでは証明出来ない……!)
おまけにまだここは、アウズ・フムラ国内だ。
罪を問うとすればこの国の法律にゆだねることになるが――はたして異国の、しかも強い関係性を持つ者同士の抗争に、どこまでこの国の司法が介入できるだろうか。
最悪、リーンハルト本国から『待った』が入れば、罪にすら問えない可能性もある。
(ロバート殿下の死と、ジル殿下の能力の関係性さえ見つかれば……)
だがロバート殿下が亡くなったのは何年も前の話だ。その時に遺体も調べられており、主だった証拠は既に押さえられているだろう。
「なら、どうしてこんなことを! わたしは……王太子になるつもりなどなかった! あなたなら……ジル兄上なら、亡きロバート兄上の遺志を継いで、立派な王になってくださると、そう信じていたのに……」
「……あなたを攫った理由は単純です。目障りだった。ただそれだけですよ」
(本当に? 本当に、それだけの理由で……?)
何かがひっかかる、とソフィアはそっとクライヴに視線を向けた。その瞬間、形容しがたい違和感を覚える。とても大切なことを、忘れているような――。
(……思い出して! 私がクライヴ殿下と会ったのは、学校と街と邸の中庭、それから――)
学園の温室で「わたしの妻になってもらえないか」と告白された。手渡されたブルーの宝石はソフィアの手に軽く収まり――と、ソフィアはふと思考を止める。
(……どうして私、あの時『軽い』って感じたのかしら……?)
その理由はすぐに説明がついた。
ソフィアは以前もあの宝石を手にしていたのだ。
それは宝石の正体を隠したクライヴが、冗談めかして渡そうとした時。あの時もソフィアは宝石を手にした。
ただし――『箱に入ったままの状態』で。
(そうだ、あの時私は――)
今はまだ、ソフィアの頭の中で描いただけの絵空事。だが何故か『間違いない』という確証があった。 ソフィアは二人の会話を断ち切るように、クライヴに向かって駆け寄る。
「クライヴ殿下! あ、あれは、まだありますか⁉」
「ソフィア?」
「あの、……わ、私に下さると言った、宝石です!」
突然のことに、クライヴはわずかに目を見開いた。だがすぐに懐を探ると、小さな箱を取り出す。ソフィアは素早くそれを受け取ると、慌ただしく蓋を開けた。
(そう……重たかったのは宝石じゃなくて……『箱』のほうだったんだわ!)
中央に据えられた大粒の宝石を外し、その台座に指をかける。かなり頑丈に固定されていたが、ソフィアが少し力をくわえると、それはあっけなく外れた。
底面から現れた物をつまむと、ソフィアはゆっくりと持ち上げる。指先にあるのは小さなガラス瓶――中には、赤黒い液体が満ちていた。
それを見た瞬間、ジルの瞳孔が一気に細くなる。
「……ジル殿下。あなたの目的はこれですね」
「それを寄越しなさい」
「あなたがクライヴ殿下を攫った本当の理由は……自分の犯行の証拠を奪い取るためだった」
よく考えてみれば、普段から「ジル兄上に」と譲っていたクライヴを、危険を冒してまで亡き者にする必要はない。つまり王太子候補選抜ではない、別の理由があるとソフィアは気づいたのだ。
(それに直接本人がここに来る必要もない。刺客でも暗殺者でも雇って、自分はどこか安全な場所で高みの見物をしていればいいはず)
だがジルはそれをしなかった。
それはクライヴの死を己の目で確かめたい、といった非人道的な願望でもない限り、もう一つの合理的な理由にたどり着く。
(ジル殿下には、ここに来なければならない理由があった。……それは『ジル殿下自身が見なければ判断できない物』もしくは『他の人には見られたくない何か』を捜していたから……!)
突然現れた代物に、元々の持ち主であるクライヴも驚愕していた。だがそこにある液体が何なのか、すぐに察したようだ。
「ソフィア……それは、もしかして」
「おそらく、ロバート殿下の血液だと思われます。凝固していないのはそれ用の薬品を入れているか、あるいは……これに混じる、毒の影響か」
優秀な王太子候補であったというロバート殿下。
彼は死の間際、自身の体を蝕み続けていた毒が親友のジルによるものだと気づいた。だがその時彼は既に声を発することも出来なくなっており、告発はほぼ不可能な状態だったのだろう。
そんな状況で、彼はなんとかして自身の死に関する証拠を残そうと考えた。そこで思いついたのが、弟であるクライヴへ渡す遺品に紛れ込ませる方法だったのだ。
しかしすぐに見つかる場所であれば、クライヴの手に渡る前にジルから奪われてしまう可能性がある。だからロバートは家宝ともいえる宝石の底に隠し、絶対にクライヴに届くように画策したのだ。
「あなたは何かのきっかけで、ロバート殿下暗殺に関わる証拠を、クライヴ殿下が持っていることを知った。だから彼を捕らえて、それを奪い取ろうとした」
「……」
「文書か、物証か……いずれにせよ、他の人間に見られることはジル殿下の進退に関わります。だからあなたは実行班にはただの誘拐だと伝え――折を見て、クライヴ殿下の持つ証拠品を奪おうとしたのではないでしょうか」
ソフィアの論証を、ジルはただ黙って聞いていた。
だがはあ、と疲れたため息を零したかと思うと、縦長の瞳孔でまっすぐにソフィアを睨みつける。
「――ゴリラの神というものは、まったく。どこまで加護を与えるのか」
「……!」
「いかにも。ぼくはそれを奪う機会をずっと窺っていた。……死ぬ寸前のあいつから、勝ち誇ったように殴り書きを見せられた、あの時からね」
――『お前は、この国の王にふさわしくない』
――『正しい王が、必ず真実を暴くだろう』
ロバートは事切れる間際、こう書いた紙をジルの手に弱々しく押し付けた。そこに書かれていた文言に、ジルはかつてないほどの怒りをたぎらせたものだ。
だが同時に、そう宣言するだけの確固たる自信がロバートにあるのだと戦慄した。












