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第三章 6



 反射的にアイザックが飛び出す。だがジルが不自然に身を屈めているのを見て、ソフィアはとっさに叫んだ。


「アイザック、だめ!」

「――え、」


 次の瞬間、バァンと空気を震わせる振動が室内に鳴り響いた。

 ぐ、というくぐもったアイザックの悲鳴を聞き、ソフィアはすぐさま駆け寄る。見ればアイザックの足に斜めに鮮血が走っていた。

 慌ててジルの方に視線を向けると、彼は床にエヴァンを組み敷いたまま、銃をこちらに向けて微笑んでいる。


「護身用です。死にはしませんよ」

「……ッ」


 ソフィアは髪を結んでいたリボンをほどくと、アイザックの太ももをすばやく縛りつけた。血液が赤黒く勢いもないため、すぐに命に関わることはないだろう。


(でもぐずぐずしている時間はない……!)


 意識を集中させる。

 ふ、と短く息を吐いた直後、ソフィアは一気にジルとの間合いを詰めた。だがわずかにジルが離れるのが早く、すぐ足元で右肩の関節を外されたエヴァンのうめき声が響く。


「――ぐあッ‼」

「殿下⁉」

「驚いた。君はあの時のメイドさんか。今は随分印象が違うようだけど」


 渾身のソフィアの一撃は、ほんのわずかな動揺によって簡単に受け止められた。同時にソフィアの首にジルの長い腕がぐるりと回る。

 一気に気道が狭まり、ソフィアは必死に口を開けた。


「――く、あ……」

「この力……ただの加護じゃないね。もしかして……『ゴリラの神』の加護者かな」


 どこか高揚した様子で、ジルは嬉しそうに目を細めた。ソフィアは懸命に引き剥がそうとするが、息をするたびぎちぎちと締まっていき、上手く掴むことが出来ない。


(くるし……でも、なんとか、しない、と……)

「ただの怪力では、これは外れません。早くしないと――」

「――ッ⁉」


 だが意外にも、ソフィアの首はすぐに解放された。

 激しく咳き込みながら、すぐに振り返り体勢を立て直す。見れば毒の効力が少しだけ薄らいだアシュヴィンが、ジルに向かって拳を振り上げているところだった。


「――クライヴ様は、どこだ!」

「君は――ああ、クライヴの奴隷か。たしか……『カンガルーの神』だったっけ」

(カンガルーの神?)

「南の島国にしか見られない、珍しい加護なんだってね。なるほど確かに、この打撃力は一筋縄ではいかないな。ただし――万全の状態なら、かな」


 そう言うとジルは、片腕でアシュヴィンの拳を受け止めた。その表皮は固い鱗に覆われており、アシュヴィンははっと目を見張る。

 だが離れる隙もなく、そのまま腕を絡めとられたかと思うと、背負うようにして反対側に叩きつけられた。どうやらジルは、長く柔軟な手足を利用した武術に精通しているようだ。

 毒で体力が削られているアシュヴィンは当然受け身をとる余裕もなく、したたかに体を打ちつけたかと思うと、短い悲鳴を上げて仰向けに転がる。


「アシュヴィンさん‼」


 ソフィアはとっさに駆け寄ろうとした。

 だが先ほどアイザックを襲った銃が、今度はソフィアの額に向けられる。


「動かない方がいい。いくらゴリラの加護者とはいえ、さすがにこの距離では逃げられないだろう?」

「……」

「しかしこんなところで思わぬ幸運だ。……リーンハルトの王の伴侶として、これほどふさわしい加護者もいまい」


 睨みつけるソフィアを前に、ジルはことさら嬉しそうに微笑んだ。その瞳はまるで蛇のような縦長の瞳孔になっており、にっこりと笑みを浮かべる口の両端からは、特徴的な牙がわずかに覗いている。

 その姿はまさに蛇そのもので――ソフィアは必死に思考を巡らせた。


(どうしよう……アイザックは動けない、エヴァン殿下とアシュヴィンも……)


 しかしジルの言う通り、この距離から発砲されればゴリラでも反応しきれないだろう。以前学園を襲撃された時に銃弾を打ち返せたのは、アレーネの強靭な蜘蛛の糸と、ある程度の距離があったからだ。

 手立てが思いつかず歯噛みするソフィアに、ジルは銃を構えたまま距離を詰める。


「安心してください。痛いのは最初だけです。次に気づいた時には、すべて終わっていますから」

「……なに、を」

「あなたは王妃の椅子に座ってさえいればいい。ゴリラの加護者であるというだけで、その価値は十分にある。さあ、ぼくのしもべになれ――」


 近づいてくるジルの口が、にやりと横に広がった。研ぎ澄まされた毒牙がむき出しになったかと思うと、そのままソフィアの首筋に下りてくる。


(嫌……嫌! でも、引き金を引くより早く逃げることは出来ない……殴ろうとしても、鱗でガードされるか、その時点で発砲されたら終わり……)


 その時ソフィアの脳裏によぎったのは、ただ一つの選択肢だった。


(こうなれば……噛みつかれた瞬間に、相打ちで捕らえるしかない!)


 蛇の加護者の持つ毒が、どれ程のものか分からない。運よく生き延びられればいいが、最悪の場合、この一噛みだけで命を落とす可能性もある。


(でも、それしか方法が、ないのなら……)


 ジルのぬるい息が、ソフィアの首筋をなぞった。他人の体温が迫る不快な感覚に、ソフィアはふとルイのことを思い出す。

 家で二人だけで過ごしたこと。抱きしめられた時の感触。口づけの前にいつも緊張してしまうこと。ルイに触れられる時は、あんなに幸せを感じられるのに。


(先輩……ごめんなさい)


 だがここでジルをとり逃すことは絶対に出来ない。

 ソフィアは覚悟を決めると、毒蛇が喉笛を噛み切る瞬間を今や遅しと待ち構えた。その態度にようやく観念したと思ったのか、ジルは陶酔したように目を細める。

 しかし次の瞬間、恐ろしい勢いで飛んで来た拳によって、眼前にあったジルの体が横に吹き飛んだ。はずみで撃鉄が薬きょうを叩き、即座に床に穴が空く。


「――ッ!」


 突然のことに、ソフィアは弾かれたように目を見張った。

 その腕を強く引き寄せられたところで、ようやく助け出されたことを理解する。体に回された腕。温かい。幸福の温度。

 助け出してくれたのは――ルイ・スカーレルだった。


「大丈夫か! ソフィア!」

「ルイ先輩……どうして、ここに……」


 すると反対側から、もう一人見知った人物が姿を見せる。


「……残念です。ジル兄上」

「クライヴ、殿下……」


 そこに現れたのは、捕らわれていたはずのクライヴだった。



 


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