第三章 3
「アイザック、どっちの方向か分かる⁉」
「うん! 匂いはこっちからする!」
生い茂る森の中を、野生動物のような勢いで二人が疾駆する。アイザックはくん、と鼻を上向かせると、ソフィアに目で合図をした。
整備された街道を無視し、最短距離で事件の遭った場所へと急ぐ。やがてソフィアの元にも、何かが焦げる嫌なにおいが届き始めた。
「……これは……」
王都から離れた舗装路。すぐそばに森の迫るその場所で、赤々とした炎が立ち上っていた。その奥に見えるのは紛れもなく――先ほど見送ったばかりのクライヴの車。運転席の割れた窓ガラスから、どす黒い煙が昇っている。
「くそ、火が強い……消火剤を持ってくるんだった」
(早く火を消さないと……そうだ!)
ソフィアはすぐに森に取って返すと、一抱えはありそうな岩に目をつけた。苔むしたそれを根こそぎ抱え込むと、ふらつくことなく現場へと戻る。
「そ、ソフィア⁉」
(たしか従騎士の授業で……火を消すのに水がなければ、酸素を遮断しろと……)
物が燃えるためには、酸素と呼ばれる成分が必要である。
だがこの酸素は空気中に無数に漂っているため、それから切り離すために砂や厚手の布といったものを使え、という講師の言葉をソフィアは思い出した。
「そうっ……りゃあ!」
驚愕するアイザックをよそに、ソフィアは力の限りその岩を上空に投げ飛ばした。追いかけるように自身も跳躍し、握りしめた右手を力の限り岩に叩き込む。
するとソフィアの拳が触れた箇所が、びし、と鋭い音を立てた。その直後、ばりばりばりという雷のような轟音が鳴り響いたかと思うと、あんぐりと口を開けるアイザックの目の前で、巨大な岩がひびだらけになっていく。
「うっそぉ……」
表面を走る亀裂はどんどん細緻になっていき、ついに余すところなく岩を覆いつくした。そして次の瞬間、パァン、と破裂音を立てて粉砕される。さらさらと零れ落ちる砂となった元・岩たちは、そのままぼふんと勢いよくクライヴの車を覆った。
(これでどう⁉ 殿下たちは……)
幸い火元に届いたのか、炎はすぐさま沈静化した。ソフィアは慌てて駆け寄ると、運転席の辺りを掘り起こす。
「いない……」
だが運転席にも、後部座席にも人の姿はなかった。残された大量の荷物を前にソフィアが絶句していると、アイザックが座席の辺りをくんと匂う。
「なんか……別の匂いが混じってる」
「別の匂い?」
「うん。殿下たちとは別の……まだ新しい」
アイザックは何度か匂いを確かめると、すぐに森の方を振り返った。
「あっちの方角に続いてる!」
(もしかして誘拐? それなら早く助け出さないと……!)
すると顔を見合わせる二人の上空に、巨大な翼の影が飛来した。慌てて仰ぎ見ると、砂山をばさりと押し払うようにアーシェントが羽ばたいている。
「うおっ⁉ なんだ早いな君たち。というかこの砂山は」
「アードラー隊長! 中に人の姿がありません! ……もしかしたら、どこかに連れ去られたのかも」
「何?」
ソフィアのその言葉に、アーシェントはずしゃと地面に降り立つと、砂に埋もれた車のエンブレムを探し当てた。顎に手を添え、小さな瞳孔の瞳を細める。
「まさかリーンハルトの……」
「隊長! 今ならまだ、犯人を追うことが出来るかもしれません!」
「アイザック・シーアン……そうか、君は犬の加護者か」
今すぐに走り出しそうなソフィアとアイザックを前に、アーシェントはしばし思案した。だがすぐに顔を上げると、ソフィアに小さな球体を握らせる。水晶玉のようなそれは水で満たされており、真ん中に白い綿のような花が浮かんでいた。
「大人数では相手に気づかれる可能性がある。これを持って、アイザックとともに潜伏先を探せ」
「これは?」
「騎士団で最近開発されたものだ。これを持っていれば『蝙蝠の加護者』の力で、だいたいの位置を特定できる」
そんな加護者もいるのか、とソフィアはしっかりと球体を握り込んだ。
「絶対に深入りするな。オレが後から必ず助けに行く」
「はいっ!」
二人はアーシェントに力強く頷くと、再び弾丸のように駆けだした。
アイザックの先導の元、二人は怒涛の勢いで森の中を駆け抜ける。やがて前を走っていたアイザックが速度を落としたため、ソフィアも慌てて足を止めた。
「……匂いは、ここに続いてる」
「ここって……」
眼前に現れたのは、時間の流れを感じさせる洋館だった。王都からかなり離れているため、普段住まいの邸宅ではなく別荘として建てられたものだろう。だが本当に人が住んでいるのだろうか、と言いたくなるうらぶれた佇まいだ。
(ここにクライヴ殿下が?)
耳を澄ましてみるが、それらしき物音は聞こえない。
「どうする、ソフィア」
「……」
自動車の爆破。あれがどれだけクライヴに被害を与えているか分からない。もしも大怪我を負っていたら、すぐにでも処置が必要だろう。それに一緒に乗車していたはずのアシュヴィンがいないのも気になった。
(王太子候補の争いであれば、対象はクライヴ殿下だけのはず……)
なんだか嫌な予感がして、ソフィアは手のひらの石をそっと握りしめた。ひんやりとした感触に冷静さを取り戻すと、ふうーと長く息を吐き出す。
「殿下の状態が分からない以上、あまり時間をかけたくない。救援が来た時に少しでも早く対処できるよう、建物の構造だけでも把握しておきたい、かな」
「やっぱり……そうだよな」
するとアイザックは、気合を入れるようにばしと自身の両頬を叩いた。
「行こう」
さすがに正面から確認するわけにはいかず、二人はそろそろと裏口へと回り込んだ。相変わらず周囲の森にも建物にも人の気配はなく、それが逆に恐ろしさを煽る。
「残り香しかない。多分、すぐに鉢合わせるようなことはないはずだ」
ソフィアを庇うように、アイザックが先にドアノブに手をかけた。だが鍵がかかっており、アイザックはううむと眉を寄せる。
「金具を壊すか……開錠作業、おれ苦手なんだよな……」
「貸して」
ソフィアはアイザックの横から、するりと手を伸ばした。軽く握りしめ、ぐいと手前に引く。すると頑強なドアノブが根元からばき、といとも簡単に外れた。絶句するアイザックの方を振り返ると、ソフィアは平然とした顔で告げる。
「行こう」
「……おれも、ゴリラの加護者になりたかったな」
「な、なんで⁉」
「だって、なんか……こう、なんかさー」
よく分からないアイザックをよそに、ソフィアたちは一階へと忍び込んだ。アイザックは再びくんくんと中空を嗅ぎ分ける。
「匂いが充満してて、よく分からないな……とりあえず匂いの薄い方に行ってみよう」
アイザックが先頭に立ち、二人は周囲に警戒を張り巡らせたまま足を進める。ぎしぎしと音を立てる板張りは、やはり相当古いもののようだ。廊下を曲がる時は特に注意をしつつ、二人はようやく二階につながる階段へと到達する。
そこでアイザックが顔を複雑に歪めた。
「……この先は、なんかいっぱい匂いがある」
「ありがとう。ここまでが限界かな……」
建物内の構造はおおよそ理解した。
やはりここは一度引いて、援軍を待つべきだろうか。
(でも万一、殿下の状態が悪かったとしたら……)
ソフィアの脳裏に、今にも息絶えそうな血まみれのクライヴの姿がよぎる。もしも、今すぐにでも助けが必要だとしたら。
だがそんなソフィアの葛藤は、アイザックの驚きによってかき消された。












