第一章 7
一人であれば別の道から迂回していたところだが、隣にアイザックがいるのでそうもいかない。
ソフィアは絡まれませんように、と祈るような気持ちでそろそろと集団に接近する。すると男たちが取り囲んでいる中心に、もう一人誰かがいることに気づいた。
(あれは、エディさん……?)
そこにいたのは懸垂降下試験の際、見事な壁蹴りと着地を見せたエディ・フェレスだった。
凛とした金色の瞳を釣り上げたまま、無表情に男たちを見上げている。
彼らとの距離が縮まるにつれ、かすかな話し声が漏れ聞こえてきた。
「――お前、愛妾の息子なんだってな」
「――兄貴たちを差し置いて、よく試験に来れたもんだよ」
「……」
にやにやと笑う男たちに対し、エディは冷めた目つきで彼らを睨むだけだ。ただならぬ単語を聞いてしまったソフィアは、さらに緊張の汗を額から流す。
(き、聞いてはいけない話題だったのでは……)
だがそれ以上に、男たちの言い方の不快さに、体の奥底がじわりと熱くなるのが分かった。『関わってはいけない』と頭では理解しているのに、どうしてか足がそちらを向いてしまう。
どうやらそれはアイザックも同じだったらしく、くるりと同じ方を向いた靴先を見て、二人は驚いたように視線を合わせた。
直後アイザックはにっかりと、ソフィアはひきつらせた笑いを浮かべながら、エディたちの元に向かう。
「あのー、何してるんですか?」
「ああ? なんだよお前」
中央にいた男が苛立った声色でアイザックをねめつけた。
一方で、二人の突然の登場に驚いたのか、エディは綺麗な目をさらに上下に見開いている。それを見てアイザックはにこやかに続けた。
「試験終わったなら、早く領内から出た方がいいと思いますけど」
「あっそ。俺らこいつに用があるから、先に帰ってな」
「そーそー。このフェレス家のお坊ちゃんになあ」
男の一人が親しさをアピールするかのように、がしりとエディの肩を掴んだ。途端に顔をゆがめるエディを見て、ソフィアも必死に助け舟を出す。
「わ、私たちもエディさんに用があるんです!」
「はあ? 何の用だよ」
「い、一緒に帰る、約束をして、おりまして……」
徐々に弱々しくなるソフィアの言葉を聞き、男たちは一瞬沈黙したのち、ぶは、と吹き出すように爆笑した。
「い、一緒に帰るって、学生気分が抜けてねぇな、ガキどもが」
「つーかお前、どうして女のくせに試験受けてんだよ」
「どうせなんかのコネだろ? いいよなあ、お貴族様は」
「俺らはこれに人生賭けてんだ! お遊び気分で来られちゃ困るんだよ!」
「う、……」
何一つ言い返せず、ソフィアはぐっと言葉を呑み込んだ。だが今はエディを助け出すのが先だと腹をくくる。
「と、とにかく! エディさんを放してください!」
「いいぜぇ、俺らに勝てたら――な!」
その瞬間、中央の男はソフィアに向けて拳を突き立てた。
だがソフィアに到達する前に、ぱん、という強い音がして向きをそらされる。見れば隣にいたアイザックが、片腕で男の腕を払いのけたようだった。
「女性に手を上げるなど、騎士の風上にもおけないな」
「――アァん? 調子に乗ってんじゃねえぞ……」
一瞬にして場の空気が変わる。
ソフィアもすぐに感じ取り、ぶるりと背を震わせた。
(ど、どうしよう、もっと穏便に解決したかったのに……)
だが頼みの綱であったアイザックも、既に戦う気力満々で対峙している。すると彼らの背後から、さらに「げふ、」と嫌な濁り声があがった。
「――まったく。こんな奴ら適当にあしらっとけば良かったのに」
「て、てめえ!」
見ると彼らに取り囲まれていたはずのエディが、その内の一人に深々と拳を叩きつけたところだった。
どさ、と重々しい音を立てて昏倒した男を前に、エディは艶やかに目を細める。
「まあいいや。僕もいい加減、面倒だと思っていた」
「……ッ、こいつら、やっちまえ!」
誰かの一声を皮切りに乱闘が始まった。
皆受験生というだけあって、殴ったり殴られたり、非常に恐ろしい打撃音が飛び交っている。ソフィアは一歩足を引きながら、どうしようと困惑していた。
(こ、怖すぎる! 何これー⁉)
そんなソフィアに、男たちの一人が気づいた。
にたりとした笑みを浮かべると、がしりと彼女の腕を掴む。
ソフィアはとっさに「痛ッ」と言ってしまったが、改めて考えると痛くもないし、何なら本気で掴んでいるとは思えない握力だ。
「お前も同罪だよ! 覚悟しろ!」
「ひい⁉ や、やめてくださいー⁉」
反射的に悲鳴を上げてしまい、必死になって掴まれた腕を振り払う。
するとあっけなく男の手は外れ、ソフィアは一瞬「あれ?」と疑問符を浮かべた。だが体の拒絶反応は止まることなく、流れるような動きで男の肩を強く押し返す。
――ドゴォ、と大砲の発射されたような音がした。
「……」
その場にいた全員が、一斉に動きを止めた。
視線は騒動のど真ん中を突き抜けていった男――今は大木の幹に、放射線状のひびを背負ったまま磔にされている――に向いている。
やがて視線は、射出元であるソフィアの方へじわじわと移動した。
一番驚いたのはソフィア本人である。
(う、嘘でしょ……⁉)
なにぶん必死だったので、多少力を込めた記憶はある。だがまさか成人男性一人が地面と水平に飛んでいくなどと、誰が予想できようか。
すると先ほどまで血気盛んだった男たちは、突然の衝撃に恐れをなしたのか、両手の平をこちらに向けながら、降参だと言わんばかりに後退し始めた。
「ば、化け物だ……」
「なんだあの女……」
「ち、違うんです! これはあの」
誤解を解こうとソフィアが一歩を踏み出す。すると男たちはひゃあーと生娘のような悲鳴を上げながら、あっという間に領外に続く道を走って行ってしまった。
伸ばした腕はむなしく空を掴んでおり、ソフィアはもはや絶望に近い声を漏らす。
「話を……聞いて……」
今すぐ泣き出したいソフィアをよそに、騒動が思わぬ解決を見せたことに、アイザックとエディは素直に感心しているようだった。
「ソフィア! すごいよ、一体どうやったんだい?」
「ええと、その……」
「もしかして、極東の国に伝わるというKARATEかい⁉ それともSHINOBI⁉」
「ちょっと何言ってるか分かんないです……」
興奮に目を輝かせるアイザックに対し、エディはしばらくソフィアの全身を眺めたかと思うと、はっきりと口にした。
「お前――『ゴリラの神』の加護を受けているだろ」
ソフィアは心臓が口から飛び出るかと思った。
「な、え、ど、どうして、そんなこと……」
「どう見たって鍛えられていない体なのに、男一人を抱えて安定した降下が出来る筋力。おまけにあんなふざけた姿勢で陸上の国内最速記録保持者を抜くなんて、常識的に考えておかしいだろ」
「ちょ、ちょっと待ってください⁉ 記録保持者って……」
「あ、それ、おれのこと」
まるで天気の話でもするかのような気安さで、アイザックは自身を指さした。
ぽかんと口を開いたままのソフィアに向けて、何故か照れたように微笑む。
「おれ、足だけは自信あったんだけど。まだまだ練習が必要だなあ」
「こいつは一年前、十五歳の加護のない状態で国内の陸上記録を大幅に更新した、陸上界の天才だ。さらにタイムが縮まっていたから驚いていたんだが……」
「あ、それはね! おれが『犬の神様』から加護をもらったからだよ!」
「……なるほどな。どうりで速度も上がるはずだ」
どこかほのぼのとした会話の一方で、ソフィアは混迷に落ちていた。












