第二章 11
――客室に戻ろうとしていたエヴァンは、再び感じ取った違和感に、ばっと背後を振り返った。
(おかしい。やはり、聞こえる気がする)
先ほど確認した部屋の最奥まで、ずかずかと大股で移動する。そこには変わらず物が並んでいたが、よくよく目を凝らしてみると、黒い天幕の向こうにドアノブのようなものが見えた。
近づいて天幕をめくる。案の定そこには一回り小さい部屋があり、エヴァンはその前に立つと静かに目を細めた。
(ネズミか? それとも――)
懐に忍ばせていた短銃を手に取り、もう一方の手でドアノブを握り込む。音を立てないよう慎重に回すと、ごく小さな音を立ててラッチが引っ込んだ。
その瞬間、銃口を中に向けて勢いよく扉を開け放つ。
「……」
だがそこには掃除用具が雑多に置かれているだけだった。
その光景を見たエヴァンは、わずかに眉を寄せる。
(……やはり、気のせいだったのか?)
念のため一歩踏み込み、天井を仰ぎ見た。だが薄暗く高さもないため、人が隠れられるようなスペースはない。それこそ本物のネズミでもない限り、ここに隠れることは不可能だろう。
言いようのない違和感を抱えたまま、エヴァンは一歩下がった。すると足元にうっすらとした溝が入っていることに気づく。手前の方には取っ手があり、どうやら地下に作られた物入のようだと推察した。
念のため確認しておこう、とエヴァンは膝をつき取っ手を握る。
「……開かないな」
だがエヴァンがどれだけ力を込めようとも、蓋はぴくりとも持ち上がらなかった。どうやら劣化のためか、錆び付いて開かなくなってしまっているようだ。
エヴァンはレンズ越しの赤い目で、しばらくその物入を睨みつける。しかしようやく諦めがついたのか、はあと短く息をつくと、静かにその場から立ち去った。
エヴァンがいなくなってから数分後。
彼がどれほど力を込めても微動だにしなかった物入の扉が、がこん、と浮き上がった。わずかに開いた隙間から、ソフィアの赤い瞳がちらりと覗き、ゆっくりと右左に動く。
人影がないのを確認すると、ソフィアはそうっと地下の物入から這い出した。
(よ、良かったーー!)
今更になってばくばくと音を立てる心臓とともに、ソフィアは半泣きで顔を覆った。普段使われていない物入に無理やり滑り込んだせいで、メイド服は埃にまみれ、編み込んだ髪もほつれている。
すると薄暗い天井から一匹のネズミ――ではなく、リスの姿に変身したルイが、するするっと下りて来た。その無事を確認して、ソフィアはほうと胸を撫で下ろす。
(ま、間に合って、本当に良かったー!)
いよいよエヴァンに見つかるという寸前、ソフィアは足元にあった物入を発見した。だが入り口の大きさから考えて、入れるのはソフィア一人が限界だろう。ソフィアの視線を受けてすべてを理解したルイは、すぐさまリスの姿に変化した。
途端に体が自由になったソフィアは、その勢いのまま物入を開けて飛び込む――といった顛末が、この小部屋の中で繰り広げられたのだ。
(ここも開けられそうになった時は、生きた心地がしなかった……)
もちろんエヴァンが気づかず、そのまま帰ってくれれば一番良かった。だが目ざとくこの物入を嗅ぎつけたエヴァンは、当然物入の中も確認しようとする。
物入の扉に鍵などかかっているはずがないため、中に潜んでいたソフィアは、内側にあったでっぱりを力の限り引っ張った。力が拮抗し開かなかった扉を見て、エヴァンは「物入が壊れている」と判断してくれたようだ。
「ルイ先輩、本当に、すみませんでした……」
変化の時に回収した服を返しながら、ソフィアは深々とルイに頭を下げた。
リスになったルイは「気にするな」と言っているのか、そのつぶらな黒い瞳をぱちばちと瞬いている。リスの加護がなければ、本当に社会的な意味で終わっていただろう。
どっと肩の荷が下りたソフィアは、脱力したまま茫然と思考を巡らせた。
(アシュヴィンさん……、クライヴ殿下を裏切ったりなんて、しないよね?)
だがエヴァンが口にしていた明確な誘い文句。アシュヴィンは拒否していたが、こうして二人だけで隠れるように会話をしているのが気にかかった。
(このまま、何ごともなければいいのだけれど……)
クライヴがリーンハルトに帰国するまで、もうあまり日はないだろう。どうかそれまで何も起きませんように――とソフィアはこくりと息を吞んだ。












