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第二章 10


 エヴァンは倉庫の奥に足を進めると、わずかに首を傾げた。


(……たしかに聞こえたはずなんだが……やはりこの状態では精度が低いか)


 ずらりと並んだ戸棚には、ぎっしりと物が詰まっており、一部には埃が積もっている。エヴァンはその一角を指で拭うと、眼鏡越しの目を細めた。


「エヴァン様、何かありましたか」

「いいや。……気のせいだ」


 背後からついて来たアシュヴィンに答えると、エヴァンは再び入り口近くへと戻って行く。するとアシュヴィンが何かを推し量るかのように、エヴァンに尋ねた。


「失礼ですが、……目じりに傷のある男を知っていますか」

「目じりに傷? 何の話だ」

「貴方が送った刺客ですよ」

「……何を言っているのか、理解出来んな」


 するとアシュヴィンは「そうですか」と呟くと、普段と変わらない淡々とした態度で視線を落とした。やがてくるりと踵を返すと、取っ手に手をかける。


「話はそれだけですか?」

「ああ」

「では、失礼いたします」


 そう言うとアシュヴィンは、静かに扉を開けて部屋を後にした。


(……やはりだめか。手ごわいな……)


 一人になったエヴァンは、短くチッと舌打ちした。




 時は少しだけ前に戻る。

 一方ソフィアは、自身の羞恥の限界を迎えていた。


(ど、どうして、こんなことに……!)


 顔の真横にはしっかりとした二の腕が突き立てられ、その手はソフィアの背後にある棚についていた。体勢的には壁に手をついたルイの腕の中に、ソフィアの体がすっぽり収まっている形である。

 ただしその空間は極めて狭く、ソフィアの体はどこもかしこもルイに肉迫していた。身を捩って逃げようにも、そもそもの部屋の大きさがそれを許さない。


(た、たしか、先輩からここに詰め込まれて……)


 気が動転していて気付かなかったが、あの倉庫の奥にはもう一つ小部屋があった。ただし掃除用具を入れておくような本当に小規模なものだったため、二人で入るのは無理だとソフィアは首を振る。

 だがいよいよエヴァンの靴音が迫ったその時、ルイはなかば無理やりにソフィアを押し込んだ。声にならない悲鳴を上げるソフィアの隙間を埋めるように、ルイは器用に部屋に入るとすぐさま内側から扉を閉める。

 こうして、ソフィアはルイと密室で缶詰状態になってしまったのだ。


(と、とにかく、静かにしないと……)


 もはや顔を上げることも出来ず、ソフィアはただひたすらに呼吸を小さくした。扉の向こうからエヴァンの気配がし、祈るような気持ちで心を無にする。

 すると祈りが通じたのか、アシュヴィンの尋ねるような言葉の後、エヴァンの足音が離れていくのが分かった。どうやら危機は去ったらしい、とソフィアは溜め込んでいた息を細く吐き出す。

 その瞬間改めて今の体勢を思い出してしまい、いよいよ身動きが取れなくなってしまった。


(は、早く、部屋から出て行って……)


 ルイに抱きしめられたことは何度かあるが、それとこれではわけが違う。ソフィアの斜め上にはルイの顔があり、すぐ目の前はその首筋。かろうじて彼の胸板を押し返す形で身を縮めているが、その分手のひらからははっきりとした心臓の鼓動と、じんわりとした熱が伝わってくる。

 メイド服に包まれた両足は、ルイの太ももで挟まれる形になっており、布越しに触れるしっかりとした筋肉の感触にソフィアは必死で意識をそらした。


(ち、近いいいい……)


 荒ぶる脳内ゴリラ神にステイステイと言い聞かせ、ソフィアは何も考えないよう素数を数え始めた。とにかく時間よ早く過ぎてと念じていると、アシュヴィンの問いかけが聞こえてくる。

 どうやらソフィアが追い詰めた刺客のことを確認しているようだが――エヴァンはそれをばっさりと否定していた。


(た、確かに、自分から認めることはないと思うけれど……)


 だが服にも顔にも、エヴァンと刺客の繋がりを認める証拠があった。その件で騎士団からも調査は入っているはずだが……いくら友好国とはいえ、リーンハルトの事情にあまり深く追求することは出来ないのかもしれない。


(でもまた、クライヴ殿下が襲われでもしたら……)


 ソフィアが思考を巡らせているうちに、アシュヴィンが短く挨拶をしたかと思うと、次いで扉を開閉する音が聞こえた。

 どうやら話が終わったようだと、ソフィアはほうと息をつく。


「(先輩、大丈夫ですか)」

「(ああ、問題ない)」


 恐る恐る顔を上げたソフィアは、音にはせず口の形だけでルイに確認した。だが睫毛の長さが測れそうなほど近くにルイの顔が迫っており、ソフィアはすぐに顔を伏せる。

 そろそろこの姿勢も限界だと、ソフィアは少しだけ足を動かした。すると何故か、眼前にあったルイの喉仏がごくりと上下する。


「(す、すみません! 私、どこかにぶつけましたか⁉)」

「(い、いや、すまない。何でもないんだ)」

「(で、でも)」

「(悪いが、あまり動かないでくれ。その――)」

「(その?)」

「(……何でもない)」


 唇を読み間違えている? とソフィアは困った顔のままルイをじいっと見つめた。だがルイは何故か赤面し、視線を明後日の方に向けたまま、いつになく険しい顔で下唇を噛みしめている。その姿を見たソフィアは「もしやゴリラの力が足や腕にかかったのでは⁉」と動揺した。


(い、痛かったのかな……ご、ごめんなさい……!)


 これ以上迷惑はかけられない、とソフィアは懸命に身を縮こませる。やがてエヴァンの靴音がし、ドアを開ける音がした――かと思えば、何故か再びこつこつという足音がソフィアたちのもとに近づいて来るではないか。


(ど、どうして? なんでまたこっちに⁉)


 ソフィアの焦燥をよそに、無情にもエヴァンの気配はどんどん接近してくる。薄い扉を一枚隔てたその向こう側に、エヴァンが立っているのが分かり、ソフィアはいよいよ瞑目した。


(お、終わった……こんな状態で見つかったら、もう騎士団どころか……)


 せめてルイだけは許してもらえないだろうか、とソフィアは必死になって言い訳を考える。だがこの場を言い逃れ出来るような名案は思い付かなかった。


(も、もうだめ……)


 身動きも取れない、大人一人分の敷地。

 悲哀の顔つきでルイを見ると、彼もまた何かを考えているようだった。


(先輩、ごめんなさい……)


 痛哭な気持ちのまま、ソフィアはうなだれるように視線を落とす。ルイの靴先の下には石の床が広がっており――ソフィアはそこで、わずかに目を見開く。


(あれ、もしかして――)


 だが次の瞬間、かちゃりとドアノブが音を立てた。



 

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