第二章 9
ようやくクライヴから解放されたソフィアは、改めて仕事場に戻った。だがとっくに必要な作業は終わっており、ひええと飛び上がりながらお礼を言って歩く。だが先輩メイドたちは快活に笑いながら首を振った。
「いいのいいの、クライヴ様から呼び出されていたんだし」
「そうそう。今日は本当にありがとね」
「へ?」
「昼間のこと。……本当はあたしたちが言わなきゃいけなかったのに、新人のあんたに任せちゃって、本当にごめんね。でもあんたがばしっと言ってくれて、すっごいすっきりしたよ」
「あの方たち、いつもああしてあたしらに絡むんだよ。でもどう言っても、クライヴ様は絶対に怒ったりなさらない。むしろ適当に合わせておくといい、と笑って下さるような方でね」
「そうなんですね……」
「ええ。たしかに『いたちの神』だから、王様にはなれないのかもしれないけれど……あの方はとても優しい良い御方だよ」
その後も、ソフィアは多くの使用人から今日の労をねぎらわれた。やがてすべての片づけを終えると、使用人棟へと続く渡り廊下を歩いていく。
(はあ……今日は本当に疲れた……)
かなりの予想外はあったが、なんとか会議も終了した。数日後にはこの任務も終わる――と安堵のため息を零す。だがソフィアの心には、どうしてもクライヴのことがひっかかっていた。
(使用人たちにも慕われているし……きっといい王様になると思うのだけれど……)
しかし当のクライヴ自身が王太子にはならないと言っている。ソフィアは胸に浮かび上がる感情を振り払うように、ぶんぶんと首を振った。
すると廊下の先で、誰かが小さく笑う。
「どうしたんだ? 一人で難しい顔をして」
「ル、ルイ先輩!」
突然現れたルイの姿に、ソフィアは思わず目を見開いた。だがすぐに口を手で押さえると、周囲に誰もいないかを確認する。
「大丈夫だ。周りには誰もいなかった」
「す、すみません……どうしてこんなところに?」
「休憩時間が取れたからな」
ルイたち正騎士は、一晩この邸で護衛をするようになっている。とはいえ一人でずっと見張るわけにはいかず、複数人で交代制を敷いているのだそうだ。
「きゅ、休憩なら、休んでください!」
「もちろん後で休む。ただ……少しだけでいいから、君の顔が見たくて」
困ったように眉尻を下げるルイを前に、ソフィアは思わず赤面した。
(そういえば夏季休暇は、この任務で潰れてしまったんだった……)
護衛としてクライヴに付き従っているルイとも、当然しばらく顔を合わせていない。途端にドキドキし始めたソフィアに、ルイがそっと手を伸ばす。
「怪我はなかったか? 殿下が抑えてくださったから、そこまで勢いはなかったと思うが……」
「は、はい! あ、あの時は、ありがとうございました」
「君の正体がばれてはいけないと、つい素気無い対応になってしまったが……正直すぐにでも医務室に連れて行きたかった」
「だ、大丈夫です! 先輩が庇ってくれましたし、それにほら私、ゴリラですし!」
照れを隠すようにソフィアが答えると、ルイはようやく少しだけ微笑んだ。そのまま二人の間に、穏やかな沈黙が落ちる。
昼間の暑さは完全になりを潜め、涼しい夏の風が廊下を吹き抜けていた。その冷たさとは裏腹に、ソフィアは自身の頬が熱を帯びていくのをはっきりと感じ取る。
(そ、そういえば私、二人きりになるのは、先輩の部屋に行って以来……)
あの時の失態を思い出し、ソフィアはいよいよ混迷を極めた。
何か言葉にしないと、とソフィアはこくりと息を呑む。
「先輩、あの――」
だがその時、渡り廊下の奥から人の気配が近づいて来た。
ルイも気づいたらしく、二人はすぐに隠れようとする。だが反対側からも足音が聞こえてきてしまい、ソフィアはひいと飛び上がった。
「ソフィア、こっちに」
ルイに手首を掴まれ、二人は近くにあった一室へと逃げ込む。どうやら倉庫として使われている部屋らしく、木製の戸棚に物がぎっしりと詰め込まれていた。ソフィアたちは外の音に注意を払いつつ、そっと部屋の奥へと身を潜める。
「しばらくここでやり過ごそう」
「そ、そうです――」
ね、とソフィアが続けた瞬間、部屋の扉がわずかに開いた。続けて二人の人影が光を遮ったかと思うと、ばたん、と扉の閉まる音がする。
(は、入って来たー⁉)
さすがのルイも予想していなかったらしく、二人はそのまま戸棚の奥で息を殺した。やがて聞こえて来た男たちの声に、ソフィアは目を大きく見開く。
「――まだ決心がつかないのか」
「申し訳ございません。ですがオレは、クライヴ様の護衛ですので」
(この声……アシュヴィンさんと、エヴァン殿下……?)
棚に阻まれて顔は見えないが、間違いなく二人の声だった。淡々としたアシュヴィンの言葉の後、エヴァンがはあと溜息をつくのが聞こえる。
「俺のところに来れば、悪いようにはしないと言っているだろう」
「ありがたいお言葉ですが」
「あんな道楽男の下で一生を終えるつもりか」
「オレにとっては、大切な主ですから」
交わされる言葉を聞きながら、ソフィアは思わずごくりと唾を呑み込んだ。盗み聞いていることは大変申し訳ないのだが――もしや、エヴァンがアシュヴィンを自分の味方に引き入れようとしている現場なのだろうか。
(でもアシュヴィンさんは殿下の親友で……い、今も断っているし……)
大丈夫、とソフィアは緊張を抑えるべく、静かに息を吐きだした。その後も二人は淡々と会話を続ける。
「……そういえばお前は、クライヴに拾われた、と言っていたな」
「……」
「奴隷として売られそうになったところを、奴が興味本位で買ったと」
(ど、奴隷?)
ソフィアたちの住むアウズ・フムラは奴隷制を撤廃し、以降厳しく取り締まっているためまず目にすることはない。
だが大陸の他の国では合法的に扱われている場合も多く、特に珍しい加護者などは高値で取引されるケースもあるという。リーンハルトもまた、ある程度の取り決めはあるものの、いまだに奴隷制が現存する国であった。
「まあお前の他にも、使用人として採用した者が多いようだが」
「そこまでご存じであれば、この話が通らないことも分かるはずでしょう」
「だからこそ、だ。お前はいい加減、自由になるべきだ」
アシュヴィンの返事はない。
「それだけの力を持ちながら、何故上を目指さない。お前の加護なら――」
(……!)
だが突然、エヴァンが怪訝そうな声を上げた。
「……今何か、物音がしなかったか?」
(う、嘘でしょ⁉)
正直に言って、二人ともまったく物音は立てていない。
だがエヴァンは自身の直感を疑っておらず、すぐに立ち上がった。ソフィアが慌てて振り仰ぐと、ルイもまた驚きに目を見開いている。
「(せ、先輩、ここは私が!)」
「(だめだ。それなら俺が出る!)」
こつん、こつんと冷たい石の床を革靴が迫る。二つ向こうの戸棚の隙間からエヴァンの軍服が見え、どうしようと震えるソフィアの手をルイが強く握りしめた。
(も、もう、見つかる……!)
ソフィアは思わず、強く目を瞑った。












