第二章 8
持っていたゴミ箱を奪われたソフィアは、あれよあれよという間にクライヴの部屋へと連れてこられた。執事頭がドアを閉める音を背中で聞きながら、ソフィアはあわわわと滝のような汗を流す。目の前にはクライヴがおり、ゆっくりと椅子から立ち上がった。
「ソフィア、急に呼び出して悪かったね。ルイから聞いたよ。この会議のために、使用人に紛れて仕事をしていたと。全然気づかなかったな」
「い、いえ……あの、すみませんでした……」
使用人として潜入していた気まずさももちろんだが、他の王太子候補に啖呵を切ってしまい、クライヴへの印象を悪くしてしまった。はたしてどれを咎められるのか――とソフィアは一人戦慄する。
だが怯えるソフィアをよそにクライヴはふ、と目を細めた。
「どうして謝るんだい?」
「そ、その、色々と、ご迷惑をおかけしてしまったので……」
「まさか。……嬉しかったよ」
え、と驚きに目を見張るソフィアのもとに、クライヴは歩み寄った。泣きぼくろのある目元に皺を寄せたかと思うと、どこか満足げに微笑む。
「ありがとう。わたしを庇ってくれて」
「か、庇うなんてそんな……私はただ、思ったことを言った、だけで」
「それでもわたしは、君の言葉にこれ以上ないほど救われたから」
そう続けるクライヴの声色は、普段のものよりずっと落ち着いていて、ソフィアはどこか不思議な気持ちで聞き入っていた。
「実はね、二人目なんだ。こう言ってくれたのは」
「二人目、ですか?」
「うん。わたしの兄が……事切れる前に手紙を残してくれた。そこにも……今日の君のような言葉が書かれていたよ」
熱にうなされ、最終的には言葉を発することも叶わなくなった兄ロバート。感染してはいけないからと、クライヴは最期の時を過ごすことが出来なかった。
だが後日、兄の部屋からクライヴ宛に一通の手紙が出てきた。そこには病に負けじと必死に綴った兄の筆跡で『お前は、この国の王にふさわしい』と書かれていたらしい。
「お兄様、が……」
「わたしが王にふさわしいなんて……そんなわけ、ないのにね。でもその手紙がどうしても忘れられなくて、手放せなくて……ずっと意味を考えていた。だから君が言ってくれたあの言葉が……どうしようもなく、嬉しかったんだ」
まるで、兄が励ましてくれているのかと思った。
そう思った瞬間、クライヴは顔を上げており――そこでようやく兄ではなく、ソフィアが叫んだのだと気づいた。
「リーンハルトでは、授かっている加護の強さが絶対だ。でも兄上は……獅子の加護者だというのに、わたしのことをとても大切にしてくれた。……ソフィア、君もね」
「え?」
「ゴリラの神なんて素晴らしい加護なのに、君はわたしと対等に接してくれた。初めて会った時からずっと」
「そ、そんなの……何の加護とか、関係ないですよ!」
「そうだね……。……うん、そうだったんだな……」
何かを確かめるように目を瞑るクライヴを見て、ソフィアは何故か胸が締め付けられる思いがした。言葉が途切れたのを察し、静かにクライヴに問いかける。
「あの、……殿下は本当に、王太子にはならないのですか?」
「どうして?」
ソフィアのその言葉に、クライヴは静かに目を開いた。それを見たソフィアはすぐさま謝罪する。
「すす、すみません! でもその、ジル殿下も、クライヴ殿下のことを褒めておられました。本当に優しい方だと……」
「ジル兄上が?」
「は、はい。それに……あの時、とても悲しい顔をしておられた気が、して……」
「……」
「も、申し訳ございません! わ、私の、勘違いで」
「――君は本当に、よく見ているね」
ふふ、と笑みを零したクライヴを、ソフィアはぽかんとした表情で見上げた。
「そうだね。……まったくなりたくないかというと、そうじゃない。尊敬するロバート兄上が目指していた道だ。どんなものか興味はある」
「そ、それでは」
「でもね。わたしはやはり王太子には、ジル兄上が相応しいと思っているんだ」
ロバートの親友だったというジル。病に倒れた兄を、毎日のように励ましに来てくれた優しいもう一人の兄。
「わたしはあのお二人であれば、どちらが王になってもいいと考えていた。だから……わたしはこのまま、ジル兄上が王になることを望むよ」
「殿下……」
「せっかく君が応援してくれたのに、……ごめんね」
困ったように微笑むクライヴを見て、ソフィアはぶんぶんと首を振った。やがてクライヴは懐から、深藍の小さな箱を取り出す。
「今日君を呼んだのは、昼間のお礼がひとつ。もう一つはこれだよ」
「これは?」
「開けてみて」
見た目以上にずしりとした箱を、ソフィアは言われるままに受け取り蓋を押し開いた。中には布張りの台座に収まった大きな宝石が輝いている。色は目が覚めるような青色で、暑い夏の空を切り取って押し固めたかのようだ。
「殿下、これは一体……」
「前に約束しただろう? 君の髪に似合う装飾品を作らせると」
「はい⁉」
「でも君は騎士見習いだというから、指輪は邪魔になるかと思ってね。とりあえず石だけ手配したんだが……どんな加工がいいかな? ネックレス? ブレスレット? ティアラというのもいいね」
ソフィアはようやく引いて来た汗が、再びどっと噴き出したのを感じた。はたしてこの宝石だけでいくらなのか。いやもう値段なんて付けられないのではないか。
考えるのも恐ろしいとぶるぶると手を震わせながら、ソフィアは恐る恐るクライヴの前に差し戻した。
「も、申し訳ございません、い、いただけません……」
「どうして? 気に入らなかった?」
「ち、違います! こ、こんなものを、おいそれといただくわけには……」
「わたしは君に渡したいんだけどな」
む、無理です……と消え入りそうな声で怯えるソフィアを見て、クライヴは苦笑いを浮かべた。ソフィアの手の上で震えていた箱を取り返すと、うーんと唇を尖らせる。
「そうか。やっぱり色がお気に召さなかったか」
「殿下⁉ そういう意味ではなくてですね⁉」
「嘘嘘、ちゃんと分かってるよ。じゃあまた今度、何か用意しておくね」
「いえもう本当に結構ですので……」
にっこりと目を細めるクライヴを見て、ソフィアはううと心の中だけで頭を抱えた。たしかに以前装飾品の話はしたが、あのレベルの宝石、下手をすると国宝クラスの代物だ。
(なんというかやっぱり、世界が違う……)
だが宝石の入った箱を不満げに傾けているクライヴには、昼間に落ちていたような陰りはなく――ソフィアはそのことに少しだけ胸を撫で下ろすのだった。












