第二章 6
「あの、すみません、ロバート様というのは……」
「ああ、あなた知らないのね。ロバート様はクライヴ様の兄君ですわ。とても優秀な『獅子の加護者』だったのだけれど、ある日突然病で亡くなられたの。だから急遽クライヴ様が候補として選ばれたのだけれど……」
「あ、あまり、候補者同士の仲は、良くないんですね」
「……エヴァン様は、以前のロバート様も目の敵にされていましたから。何でも、自分より剣の腕前があるのに、戦わないのは何ごとだと憤慨しておられたらしくて……。逆に言えば、それだけロバート様のことを認めておられたのね。でも後継のクライヴ様はその、……どちらかというと、奔放な……いえ、陽気な気風の方でしょう?」
「あ、あー……それは何となく、分かります……」
これまでにあった色々を思い出し、ソフィアはこくこくと心の中だけで頷いた。どうやらメイドたちの印象もあまり変わらないらしく、先輩メイドはかすかに苦笑する。
「私たちに対してはとても優しいから、きっとよき当主様にはなると思うのだけどね。王太子の座にはあまり積極的でないらしくて……クライヴ様ご自身も『ジル兄上に一任する』と公言されているくらいだし」
「その、兄上というのは……」
「もちろん、血のつながりがあるわけではないわ。ただ元々、ジル様とロバート様は本当に仲が良くて……その関係で、クライヴ様はジル様のことを実の兄のように慕っておられるの」
「それで『ジル兄上』なんですね」
「ええ。でもおそらく、このままジル様が選ばれるのでしょうね……。ロバート様がおられれば、また違ったのでしょうけれど」
先輩メイドの話を聞く限り、クライヴの兄であるロバートとジルは、非常に親しい間柄であり、かつ実力や人気の拮抗した王太子候補だったらしい。
ロバートが病で伏せた時も、ジルは毎日のように邸に訪問し、献身的に見舞いを続けていたそうだ。だがロバート亡き今、国民の期待はジル一人に寄せられている。
「ほ、他の候補の方はどうなんでしょうか?」
「エヴァン様は騎士団長という立派な肩書をお持ちですけれど、どうも真面目過ぎるというか、何を考えているか分からない部分があると言いますか……あとのお二人も、そこまで政治に対して熱心ではないという噂ですわ」
「な、なるほど……」
メイドの言葉通り、集まっている候補者の中でも、エヴァンは一際神経質な空気を漂わせていた。会話を聞いていた限りでも、王太子選自体あまりよく思ってはいないようだ。
(でも刺客を送って来たのはエヴァン様……やっぱり、王太子の座を狙って?)
だがそれが目的であれば、現時点で一番有望視されているジルを落とさなければ意味がないのではないか。それとも一番弱いところから崩していく作戦なのか。
(う、うーん……分からない……)
おそらくリーンハルトでの力関係や政治的な絡みもあるのだろう。ソフィアはうむむと首を傾げつつも、とにかくこの会議が無事に終わりますように、と動向を見守る。
どうやら会議も終わりが近いらしく、先ほどのエヴァンの言葉に乗っかるようにして、候補の一人が口を開いた。
「まあまあエヴァン様、そういじめなくても良いではありませんか」
「いじめ? 何の話だ」
「彼ですよ。クライヴ様は『どうあっても王太子にはならない』と常々言っているので……我々と比較するものではないかと」
するとそれを聞いたもう一人の候補も、ははと笑みを零す。
「ならないのではなく、なれないのでは?」
「ああそうでした。まさか――たかが『いたちの加護者』に国を任せるわけにはいきませんよねえ」
(な、何なの、あの言い方……)
先ほどのエヴァンの言葉は、剣で一突きにするような鋭い攻撃力があった。だが今交わされている会話は、まるで毒を染み込ませた綿で、ぐるぐると体を締め付けているような気持ち悪さがある。
それはソフィアだけではなく、周囲もはっきりと感じているようで、メイドたちはどこか居心地悪そうに目をそむけた。
だが当のクライヴだけは、平然とした様子で微笑んでいる。
「申し訳ございません。わたしも兄のような、優れた加護をいただければよかったのですが……あいにく、神様がわたしを愛してはくださらなかったようで」
「いやいやクライヴ様、あまり自分を卑下なさいますな。動物神の加護は、誰にでも平等に与えられる――我がリーンハルトの教義ではありませんか」
「そうですとも。たとえそれが……ふふ、い、いたちの神であろうとも、神に感謝すべきなのですよ」
そう言って冷やかす二人の候補者は、いよいよ笑いが堪えきれないとばかりに肩を震わせ始めた。その光景にエヴァンは眉間の皺を限界まで深くし、ジルは何も言わず場の流れを探っている。
やがて誰も咎めないことを良しとしたのか、王太子候補たちは傍で控えているメイドたちまで巻き込み始めた。
「ねえ、君たちも思うでしょう? いたちの神であろうと、王太子候補を諦める必要はないと」
「……」
突然投げかけられた問いかけに、メイドたちは一斉に口をつぐんだ。
無理もない。ここに集められているのはクライヴの家で雇用されている使用人たちだ。下手なことを言えば自らの進退が危うい。誰もが視線を落とし、どうかこの流れが早く終わりますようにと祈るように沈黙する。
だが候補たちはその態度に不満を覚えたのか、わずかに目を眇めた後、メイドの一人を指さした。
「オレたちが聞いてるんだからちゃんと答えろよ。ほら、お前」
「へ?」
「お前だよ、そこの。背が高い、赤い髪の」
(わ、私だったー!)
そこでソフィアはようやく、自分が呼ばれていることに気づいた。いつの間にか先輩メイドたちは隠れるようにそそくさと身を屈めており、結果長身のソフィアが一人目立つ形で立っていたせいだろう。
「え、ええと、あの」
「ほら、何か言えよ」
どくんどくんと心臓が弾け飛びそうに音を立てる。頭の中が真っ白になり、一体何を聞かれたのか、何と答えるべきかとソフィアは逡巡した。
(わ、私は、一体、なんと……)
だがこくりと息を吞んだ瞬間、円卓に座るクライヴの姿が目に入った。普段と変わらない柔和な笑顔を浮かべていた――と思っていた彼は、よく見ればこちらを見ていなかった。視線を落としたままただ静かにうつむくその姿を見て、ソフィアははっと目を見開く。
(クライヴ殿下は、本当に……そう思っているのかしら)
たしかに、クライヴにはたくさん振り回された思い出がある。だが初めて彼と出会った時、彼は酔客から店員の女性を守っていた。
(それに、この邸で働く人たちは、みんな誇りを持っていた……)
教育係であったリーフェを筆頭に、彼らはクライヴのもとで働けることに喜びを感じているようだった。今だって王太子候補たちの言葉に応えられないのは、自らの立場を気にしてだけではなく、クライヴに対して申し訳ないという気持ちがあるからだ。
いたちの神だから、と彼は笑っていた。
あれは本当に、クライヴの本心だったのか。
「――お、恐れながら、申し上げます。おっしゃられる通り、わ、私は……いたちの加護者であろうとも、王太子を諦める必要はない、と、思います……」
「……はあ?」
候補たちの声色が変わった。
その変化にソフィアはひいいと背筋を震わせる。
だがここで引く気はない。
脳内のゴリラの神も興奮しているのか、ドラミングで応援してくれる。
「動物神の加護は、誰にも平等に与えられるもの。であれば……どんな加護であってもその人の未来は、進むべき道は、その人の努力次第で得られるはずです!」
その場の空気が、一瞬にして氷点下に急落したかのようだった。
周囲にいたメイドたちは言葉にせずとも息を吞んでおり、二人の王太子候補たちは不愉快げに口元を歪めた後、は、と鼻で笑う。
「おいおい……もしかして、本気で言ってんのかよ」
「君さぁ、言葉の綾って分かる? いたちの神だよ?」
「い、いたちの神の王子様がいても、良いと思います!」
皮肉るような候補たちに、ソフィアなおも力強く言い放った。幸い、ソフィアのメイド生活はあと数日で終わり。他のメイドたちのように進退を気にする必要はない。
(で、でも、万一外交問題になったら、どうしよう……!)
心臓は相変わらず、止まることを知らない時限爆弾のように音を立てている。だがソフィアは睨みつけてくる候補たちを前に、一歩も譲るつもりはなかった。
するとそんなソフィアに腹を立てたのか、候補の一人が椅子を蹴倒すようにして勢いよく立ち上がった。そのまま手にしていたカップを、中身ごとソフィアに向けて投げ飛ばす。
(――!)
カップの中には先ほど入れ替えたばかりの紅茶が残っており、ソフィアは多少の火傷を覚悟してぐっと目を閉じた。だがガシャン、と陶器の割れる音が地面に落ち、恐る恐る顔を上げる。
そこにはいつの間に現れたのか――飛んで来たカップを片手で叩き落したルイの背中があった。












