第二章 4
(何なのよ、何なのよ、何なのよー!)
廊下に並ぶ美術品を磨きながら、リーフェは反対側にいるソフィアをぎろりと睨みつけた。結局あれから押し付ける仕事が思いつかず、仕方なく自分の仕事の半分をやらせている。
(本当にあれを、こいつ一人でしたっていうの⁉ どう考えてもおかしいでしょ!)
今目の前での働きを見る限り、とてもそんな力があるようには思えない。むしろ一つ一つの物をことさら慎重に持ってはまた恐る恐る置く、ということを繰り返しており、他のメイドに比べても遅いくらいだ。
(絶対何かあるんだわ! いつか尻尾を掴んで――)
すると廊下の奥からメイド長が姿を現し、廊下にいた二人に告げた。
「ちょうど良かった。貴方たち、今から窓磨きに行ってくれる?」
そう言われて訪れたのは三階の西側の部屋だった。
少し薄暗く、普段はあまり使われていない客室のようだ。古びた窓を開けると、そこそこの広さのバルコニーがあり、二人が足を踏み入れると重さでぎいと軋んだ。
老朽化したその様子に、リーフェははあとため息を漏らす。
(窓磨きって、大変なのよねえ)
手が届く範囲は良いが、高いところになると脚立が必要となる。おまけにこの窓には、上の方に採光用の別窓もついており、あの位置になると簡単には手が届かない。
あそこは男性にやってもらおうと考えていたリーフェだったが、そこでふと名案を思いついた。
「ソフィア、あなたはあの窓をしてくれる?」
「えっと、あの高いところのでしょうか」
「ええ。まさか出来ないなんて言わないわよね?」
(ふふ、せいぜい困るといいわ)
無理ですぅ、と泣きつく様を想像していたリーフェだったが、その予想は裏切られ、ソフィアは「はい!」と明るく返事をした。
「では、少し準備をしてきますね」
(準備……?)
ソフィアはそのままいなくなり、リーフェははてと首を傾げた。だがメイド長に見つかったらまずい、と一人脚立を広げて作業にかかる。するとほどなくして、リーフェの脇にぱらり、と細長いロープが垂れてきた。
(ロープ? どうしてこんなところに……)
思わず上を見たリーフェは、そのままぎょっと目を剥いた。そこには屋根に結び付けたロープを片手で掴み窓に向き合う、ソフィアの姿があったからだ。
「ソ、ソフィア⁉ あなた一体何を――」
「あっ、すみません、こうした方がちゃんと磨けるかと思って」
「だ、だ、大丈夫なの、この高さで⁉」
「は、はい。割と慣れているので」
(慣れてるって何によ⁉)
実のところ、通常の降下訓練+アイザックの特訓に付き合った成果なのだが、そんなことを知る由もないリーフェは、ただがたがたと肩を震わせた。
(だってここ三階よ⁉ それなのに、あんなロープ一本で……)
だがソフィアは本当に平然とした様子で体を固定すると、どこか緊張した面持ちでそうっと窓ガラスを磨いている。本気でその体勢のまま続けるつもりらしい。
(何なのこの子⁉ どう考えても普通じゃないわ!)
動じていることを悟られないよう、自らも手を動かしながらリーフェは混乱していた。採光窓を拭くだけで、あんな危険なことをする使用人など見たことがない。
何とも言い難い緊張感の中、二人は無言で作業を進めていく。やがて手の届く範囲を拭き終えたリーフェは、ふうと額を拭った。
(あとは上の方だけね。もう一段上らないと……)
リーフェは覚悟を決め、よいしょと一つ上の足場に乗り上げる。だがその瞬間、ずるりと足元が滑り、リーフェの体はバルコニーへと投げ出された。
「――きゃっ!」
「先輩⁉」
ソフィアがすぐに下を向いた。リーフェはその視線をまっすぐに受けながら、そのままバルコニーへと落下する――だけのはずが、手すりにぶつかった瞬間、ばきりと嫌な音が背中を這った。
(――え?)
脆くなっていたのだろう。リーフェは破損した手すりの残骸とともに、バルコニーを飛び越え地上へと身を投げ出した。あまりに突然のことで、自身に何が起きているのかすらリーフェは理解出来ない。
(待って、あたし、いったい――)
視界が急速に狭まり、焦燥を浮かべたソフィアの顔だけが映り込む。やがて気持ちの悪い浮遊感の後、引きずり降ろされるかのような圧を感じ、リーフェはたまらず目を閉じた。
だがその直後、がくん、と荒々しく体が上下に揺れる。
(――?)
肩と膝裏に、誰かの腕の感触がある。いったい誰の――とリーフェが呆然としていると、ついで壁を蹴るような衝撃が続き、どさ、と地面へと降り立つ感覚が伝わった。
恐る恐る瞼を押し上げると、そこには驚きに目を見開いたソフィアの顔がある。
「先輩、大丈夫ですか?」
「え……えっ?」
「バルコニーが古くて、壊れてしまったみたいです。怪我はありませんか?」
「な、ない、けど……」
「良かった……」
するとソフィアは、心の底から嬉しそうににっこりと微笑んだ。それを見たリーフェは何故か赤面し、慌てて今の状況を確認する。
(あ、あたし、この子から助けられて……?)
三階からの高さから落下したというのに、ソフィアは二本の足で平然とその場に立っていた。その両腕にリーフェはすっぽりと包まれるように抱かれており、まるでお姫様と騎士のような光景だ。
(嘘でしょ? この子、一体何者なの?)
いよいよ理解が追い付かなくなったリーフェが絶句していると、先ほどの音を聞きつけたのか、アイザックがものすごい勢いで姿を現した。その速度はすさまじく、またもあっけにとられるリーフェをよそに、二人は普通に会話を始める。
「ソフィア! すごい音がしたけど大丈夫⁉」
「うん。驚かせてごめんね、アイザック」
「ならいいけど……厩舎の方まで聞こえて来たから、びっくりして」
(厩舎⁉ ここからどれだけ離れていると……)
リーフェ達がいる本館と厩舎は、互いに敷地の端と端に位置する。そこまで音が響いていたのか、という驚きももちろんだが、それを聞いてからここに着くまでのアイザックの速度はもはや異常だ。
するとさらに上空から、冷静な声が落ちてくる。
「何かと思って来てみれば……何やってるんだお前」
「エ、エディもごめんね……」
苦笑を浮かべるソフィアを見た後、リーフェもすぐに声の主を探した。よくよく目を眇めてみれば、リーフェ達が磨いていた窓のさらに上――屋根の上にある飾りの傍に、エディの姿がある。
するとエディはその場に立ち上がると、そのまま勢いよく地上へと身を投げ出した。思わずひいと声を上げたリーフェの眼前に、すたりと軽やかに着地する。
「目立つことはするなと言っただろう」
「ご、ごめんなさい……」
「あれ? エディはたしか、料理長から野菜の下準備を頼まれてなかったっけ」
「もうとっくに終わった。今は自主的な休憩時間だ」
目の前で繰り広げられるあれそれに、リーフェの頭は限界を迎えていた。ソフィアの腕の中からようやく下ろされたところで、恐々と三人に尋ねる。
「あ、あなたたち、一体……」
それを聞いたアイザックはちらりとエディの方を見た。一方エディは関心なさそうに、よそに視線を向けている。やがて困った顔をしたソフィアが、申し訳なさそうに人差し指を口元に当ててえへへ、と微笑んだ。
「す、すみません。このことはどうか、秘密にしておいていただければと……」
「……」
その表情を見たリーフェは、何故か顔を赤くしたまま、こくこくと頷くことしか出来なかった。












