第一章 9
「す、すまない。顔に出すつもりはなかったんだが、その……」
「その?」
「今日の殿下とのやり取りを、思い出してしまって」
頭から疑問符を浮かべるソフィアの視線に耐えかねたのか、ルイはわずかに頬を赤くしたまま口を開く。
「その……殿下は俺と違って、女性の扱いがお上手だし……君もきっと楽しいのだろうなと……。それに比べて俺はなんて不甲斐ないのかと少々自己嫌悪を」
「そ、そんなことありませんよ⁉」
「あ、ありがとう。だがどうしても気になってしまってな……。アシュヴィンの話も途中途中しか聞いていなくて、本当に悪いことをした」
「も、もしかして、カフェの時も……?」
「……だめだな。口にすると、いよいよ自分が女々しく思えてきた」
(もしかして、ずっと気にしてくれていた?)
今朝広場で合流した時も、着せ替え人形と化していた時も、仕事を終えた後だって、ルイは微塵もそんな素振りは見せなかったのに。
こうして二人きりになった途端、本音を零してしまう――手で口元を覆い隠したままよそを向くルイを見て、ソフィアは思わずときめいてしまった。
「せめてもと思って、急いで買ってきたんだが……逆にこうして物でしか喜ばせる方法が思いつかない、俺の浅学がばれてしまったような気がしてな」
「そ、そんなこと絶対思いません! すごく……本当に、すごく嬉しいです! それにあの、カフェでのことも、先輩が心配するようなことはまったくありません! ただの雑談というか、リーンハルトの話くらいで」
「そんなに慌てなくても大丈夫だ。分かってる」
(うう、どう言ったらいいの……?)
仕事とはいえ、ルイに不安を与えてしまったことが申し訳なく、ソフィアはどうしようと困惑する。だがいよいよ方法が思いつかなくなったソフィアは、こくりと息を呑み込むと、洋服の入った箱をわきによけた。
そのまま隣にいるルイの胸板にどす、と強く額を押し付ける。
「ソフィア?」
「ま、前にも言いましたけど、私は先輩以外、好きにはならないので……」
徐々に小さくなっていくソフィアの言葉を、ルイはしばらく茫然と聞いていた。だがそれがソフィアなりの必死のフォローだと分かったのか、かすかに微笑むと優しく抱き寄せる。
「……すまない。そんなつもりで言ったんじゃないんだ」
「ほ、本当ですか?」
「ああ」
困ったように笑うルイを見て、ソフィアはようやく胸を撫で下ろした。安心した途端今の自分の体勢に気づき、今更ながらに狼狽する。
(ま、前も部屋で二人きりのことはあったけど、今回は寮じゃないし、それに……)
衣服を介して耳元で聞こえるルイの心音。胸は静かに動いており、ソフィアのものとは違う体温が何だか恥ずかしい。やがて頭上にあるルイの喉がわずかに上下した。
「――ソフィア」
「は、はいっ!」
思わず上ずった声で返事をしてしまった。
どうしよう。付き合っているということは、その、色々と先があるわけで、とソフィアの脳内を本で知った知識が駆け巡る。だがその対処法を思い出す余裕もないまま、ルイの手が頬に寄せられた。
上向かされ、ゆっくりと唇が降りてくる。
触れ合った瞬間、考えていたさまざまなことがすべて吹き飛んでしまい、ソフィアはただ懸命に口づけに応えた。
(うう、まだ慣れない……)
やがてルイの顔が離れ、ソフィアはおずおずと睫毛を上げる。目の前に今まで見たことがないほど熱を孕んだルイの瞳があり、思わず息を呑み込んだ。
(ど、どうしよう、私――)
ルイの顔が再び近づいて来る。これから訪れる未知への戸惑いに、ソフィアはたまらず顔を伏せ、びくりと大きく肩を震わせた。
するとそれに気づいたのか、ルイはすぐに動きを止める。
「……ソフィア?」
「あ、その、違うんです! その……」
決して嫌なわけではない。だが体験したことのないあれそれに、怯えているのも事実だった。ルイは必死になって否定するソフィアを見つめていたが、やがて優しく頭を撫でてくれる。
「……そろそろ、帰る準備をしないとな」
「え⁉ で、でも」
「ディーレンタウン行きのバスは、そろそろ最終だろう?」
そう言うとルイはぽかんとするソフィアの頬を、軽くむにと左右に引っ張った。
なにほ⁉ と仰天するソフィアの顔を見て笑いを零すと、すっくとソファから立ち上がる。手慣れた様子で食器を下げるのを見て、ソフィアも慌てて手伝った。
流しで食器を洗っている間も、口を開くタイミングが分からない。
(ど、どうしよう、何だか、悪いことをしてしまったような……)
ちらりとルイの方を覗き見るが、その表情はいつもの穏やかなもので。あっという間に食器は綺麗になり、ルイに急き立てられながらソフィアは慌ただしく家を出る。
停留所に向かう道中で、ルイが軽く微笑みかけた。
「今日はおつかれ。明日はゆっくり休めよ」
「は、はい……」
バスを待っている間も、ソフィアはルイの顔をまともに見ることが出来なかった。やがて大通りの向こうからバスが近づいて来て、ソフィアはいよいよルイと別れなければならないことに、もどかしさと焦燥を募らせる。
すると隣にいたルイが、小さな声でぼそりと呟いた。
「さっきは、すまなかった」
「え?」
「君の気持ちも考えず、つい性急に事を進めようとしていた。本当に申し訳ない」
「ち、違うんです、あれは、私が」
「君が謝ることは何一つない。だからそんなに……悲しい顔をしないでくれ」
その言葉に、ソフィアは弾かれるように顔を上げた。ようやくまっすぐに見たルイの顔は、いつものように優しくて――その表情にソフィアは心から安堵する。
(良かった……いつものルイ先輩だ)
ほっとした途端、急激に申し訳ないという気持ちが湧いてきて、ソフィアはうわあと顔を伏せた。だが勇気を出し、近くにあったルイの手をそっと自身の指先で絡めとる。
「ソフィア?」
「す、すみません……先輩が嫌とかではなくて、その、今までこうした経験がなくて、どうしたらいいか分からない、だけで……」
するとルイは、たどたどしかったソフィアの指先をぎゅっと握り返してきた。驚くソフィアにルイはいたずらっぽい笑みを向けると、静かに言葉を続ける。
「それを聞いて安心した」
「先輩……」
「これからはもっとゆっくり、二人のペースで進んでいこう」
バスが目の前に到着するのに合わせて、ルイはするりと手を離した。最終便というだけあって、ソフィア以外に乗客の姿はない。ためらうように何度も振り返るソフィアに向けて、早く乗れとルイが苦笑する。
「じゃあ、また」
「は、はい」
「おやすみ」
「おやすみなさい……」
やがて扉が閉まり、ソフィアは一番後ろの窓際の席へと座った。外にはまだルイの姿があり、ソフィアを見上げて手を振っている。ソフィアもまた小さく手を振り返した後、その手をそっと窓ガラスへと添えた。
(先輩は私が怖がっているとわかって、それで……)
豪快なエンジン音が響き、バスは静かに前進を始めた。
動き始めてもなお、ルイは手を振っており、ソフィアもまた懸命に応じる。そうして完全に姿が見えなくなったあと、ソフィアは深く座席に腰かけながら、腕の中にある紙袋を抱きしめた。
(次はもう少しだけ、頑張ってみよう……!)
ソフィアは色々と浮かぶ決意を胸に、一人静かに拳を握りしめた。












