第一章 8
「じゃあねソフィア、また学校で」
「は、はい……」
王都の一等地、来賓用の邸に入っていくクライヴを見送ったところで、ソフィアはようやくはあと肩を落とした。その様子に隣にいたルイがくすと笑う。
「おつかれ」
「すみません、護衛任務のはずなのに……」
「犯人逮捕までしたんだ。十分すぎる働きだろう」
明日は王宮で行われる歓待パーティーに出席するため、ソフィアは付き添わなくてよい、とのことだった。エヴァンと呼ばれていた王太子候補のことは気になるが、ルイとアシュヴィンもいるし、警備の目が多いところで無茶は出来ないだろう。
「ルイ先輩もお疲れさまでした」
「ああ。……ところでソフィア、この後は何か予定があるか?」
「いえ、寮に戻って休もうかと」
するとルイはなんとも言いがたい表情で沈黙したのち、やがて覚悟を決めたように口を開いた。
「良かったら、俺の家に来ないか?」
「へ⁉」
「まだちゃんと招待したことはなかったし、最近仕事ばかりでずっと会えていなかったからと思ったんだが……」
ソフィアは一瞬で頭の中が真っ白になった。
(ルイ先輩の家って、た、確かに一人暮らしだから、お邪魔にはならないかもしれないけど、でも……⁉)
こうした時、外泊の経験でもあれば少しは違ったのだろうが、悲しいかなソフィアにそんな場数はなかった。ゴリラの神もさすがにお手上げと、力なく首を振っている。
(も、もしかして泊まりとか⁉ で、でも準備も何もしてないし……)
うーんうーんとかつてないほど苦悩するソフィアに気づいたのか、ルイは驚いたように目を見開いた。
「無理なら無理でいいんだぞ。どこかで一緒に夕飯でもと思っただけで」
「ご、ご飯ですか?」
「ああ」
きょとんとしているルイの様子に、ソフィアは先ほどクライヴを見送った時よりも深く脱力した。同時に色々あらぬことを想像した自分が恥ずかしくなる。
「せ、先輩さえご迷惑でなければ、お伺いしたいです!」
「もちろんだ。じゃあ決まりだな。先日渡した合鍵は持ってるか?」
「はい!」
「俺は今日の報告をしに、一旦騎士団に戻る。悪いが先に戻っていてくれ」
住所は分かるかと確認され、ソフィアが頷くと「出来るだけ早く戻る」と言い添えて、ルイは騎士団の方へと走っていった。その姿をぼうっと見送っていたソフィアだったが、通りがかりの人の視線を感じ、ようやく今の状況を思い出す。
クライヴの趣味で着せられた、真っ白なワンピースのままだ。
(と、とりあえずこの服、着替えよう!)
ルイからもらったメモ書きを頼りに大通りを歩く。いくつかの住宅が見え始め、その一角にルイの新居があった。小さい借家だといっていたが戸建てで、小さいが可愛らしい庭まである。
「し、失礼します……」
合鍵を差し込むと、扉は簡単に開いた。家主の不在に侵入するような後ろめたさを感じつつ、ソフィアは恐る恐る足を進める。
玄関の奥はすぐに大きなリビングへと繋がっていた。立派な木目のテーブルとソファ、深緑色の絨毯。窓辺には観葉植物の他にまっすぐ伸びた一本の木があり、ソフィアは思わず笑みを零す。
(あの木も一緒に運ばれて来たのね)
引っ越してまだ日も浅いせいか、それ以外に目立った家具はない。ソフィアはすべすべとした木肌を優しく撫でると、部屋の奥へと視線を向けた。
壁にかけられた時計は五時半過ぎ。
王都には閉まるのが早い店も多く、ソフィアのような学生の場合、夜は入店禁止になるところもある。ルイがすぐ戻ってくれば問題ないが、多忙な騎士団長がそう簡単に捕まるとは思えない。
(どうしよう……今から出かけるのは大変だったかも)
ルイも一日付き合わされて疲れているだろうし、やはり食事は諦めて帰るべきだろうかとソフィアは逡巡する。そこでリビングの奥にもう一つ区画があることに気づき、何だろうと足を伸ばした。
「台所がある……」
どうやら備え付けのキッチンらしく、流しにガス台など、一通りの調理器具が揃っていた。鍋や食器も準備されており、綺麗な状態のそれらが行儀よく並んでいる。
(簡単な調理なら出来そう。……と、なると……)
ソフィアはそれらをしばらく見つめていたが、やがて決心したのか「よし」と小さく拳を握りしめた。
元の洋服に着替えたソフィアは、ルイが戻ってくるまでにと市街地へ向かった。だが目的の食糧品店より先に、来た道を戻って行く。
(ええと、さっきのお店は……)
まっすぐに向かったのは先ほどの洋品店だった。相変わらずキラキラしい外観にソフィアが臆していると、中にいた店員が気づいて話しかけてくる。見れば先ほどの試着で付き添ってくれた人だった。
「先ほどのお嬢様ですね。いかがされましたか?」
「あ、あの、さっき試着した最後の洋服を、もう一度見せていただけないでしょうか」
すると店員は少し困ったように眉を寄せた。
「申し訳ございません。実はあれからすぐに売れてしまいまして……」
「そ、そうなんですね……」
ありがとうございました、とソフィアはしょんぼりと頭を下げると、そのまま店を後にした。
(まさか、こんなにすぐに無くなってしまうなんて……)
再度値段を確かめて、こっそりとお金を貯めるつもりだった。だが既にそのものがないと分かり、一気に目標を失ってしまう。
(で、でも、ルイ先輩が好きな服の傾向は分かったわけだし、これからああいう洋服も、少しずつ挑戦してみよう……)
今までの自分であれば、誰かの好みで服を選ぶなど考えもしなかった。自らの変化に驚きつつも、どこか暖かい気持ちになって足取りが弾む。
その後ソフィアは牛肉とトマト、赤ワインとハーブなどを買い、急いでルイの家に戻った。新品同然の台所に立つと、昔実家の料理長から習ったレシピを思い出す。
(こんなことなら、もっと真剣に習っておくんだった……!)
記憶の糸を手繰りながら、ソフィアは恐る恐る調理を開始した。
ゴリラの力で器具を壊さないよう細心の注意を払いつつ、肉に香りをつけながら炒め、赤ワインとトマトを入れて煮込んでいく。しばらくするとおいしそうな匂いが漂い始め、ソフィアは大丈夫そうだと相好を崩した。
するとタイミングよく、玄関の扉を開ける音がする。
「すまない! 思ったより遅くなって――ソフィア?」
「あ、お、おかえりなさい!」
リビングに入ったと同時に、ルイは大きく目を見開いた。そのまま台所へ足を運ぶと、ことことと音を立てる鍋をソフィアの隣から覗き込む。
「まさか……作ってくれたのか?」
「その、外に出るのは大変かと思って……あまり大したものではないんですが」
「いや、嬉しいよ。ありがとう」
完成した料理を皿に取り分け、リビングのテーブルに運ぶ。
隣り合うようにソファに座り、最初の一口を運ぶルイをソフィアは祈るような気持ちで見つめた。味見では大丈夫だったはずだが。
「ど、どうでしょうか……?」
「……すごく美味しい。こんな料理がすぐに作れるなんてすごいな」
(よ、良かったー!)
一気に緊張が解けたソフィアは、自身もようやく口に運んだ。長く煮込んだ牛肉が口の中でほろほろと崩れ、芳醇なトマトとスパイスの香りが体中を満たす。付け合わせのパンもしっかりと食べ終えた頃、ルイが「そういえば」と立ち上がった。
別室に行ったかと思うとすぐに戻って来て、大きな手提げ袋を差し出す。
「その……芸がないと言われたら、それまでなんだが……」
苦笑するルイを前に、ソフィアははてと思いつつ、姿勢を正してそれを受け取った。何だか見覚えのある箱とブランドロゴ……と気付いた途端、すぐに心臓が音を立てる。
(も、もしかして、これって……)
中に入っていたのは――ソフィアが先ほど店に行って、売り切れたと言われた洋服の一式だった。シックな濃紺のブラウスに白のスカート。だが値段を知っているソフィアは、すぐにあわあわと震え始める。
「せ、先輩、これは……」
「あの時、君がこの服をすごく気に入っているように見えたから」
「で、でもこのお店、す、すごく高いのでは⁉」
するとルイは一瞬きょとんとしたあと、小さく噴き出した。
「そんなこと気にするな」
「ですが……」
「それより『もう少し工夫をしろ』と怒られるのかと思った」
「そ、そんなこと、言うはずがありません!」
ありがとうございます! と目を輝かせて洋服を掲げるソフィアを見て、ルイは嬉しそうに目を細めた。
「喜んでもらえて良かった。また今度、着たところを見せてくれ」
「は、はい!」
まさかルイから贈り物としてもらえるなんて、とソフィアは丁寧に箱へと包みなおした。その途中、ふと視線を感じてルイの方を見る。
「先輩?」
「うん? どうした」
「なんだか、しょんぼりしているような気がしたので……」
ソフィアの突然の指摘に、ルイはしばしきょとんと瞬いていた。だがすぐに困ったように眉尻を下げ苦笑する。












