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第一章 3



 詳しいことは後日改めて指示するという言葉を受け、ソフィアは一人従騎士団棟に戻っていた。


(まさか、あの時の人が王太子候補だったなんて……)


 あの時はとにかく一般人を守らねばと必死で、ついゴリラの力を揮ってしまった。まさかそれがこんなことになるなんて、とソフィアはううと頭を抱える。


(でも騎士団の仕事である以上、しっかり役目は果たさないと!)


 すると背後から名前を呼ばれ、ソフィアはすぐに振り返った。どうやら追いかけて来たらしいルイの姿を発見し、思わず目を見開く。


「ソフィア、ちょっといいか」

「ルイ先輩! ど、どうしましたか?」

「これを渡そうと思って」


 そう言うとルイはソフィアの手を取ると、その手のひらに小さな紙片と鍵を落とした。えっと瞬きながらソフィアが確認すると、紙には何やら文字が書かれている。


「こ、これは?」

「俺の家の住所と合鍵だ」

「⁉ い、いい、いいんですか⁉」

「ああ。本当はもっと早く知らせるつもりだったんだが、色々立て込んでいてな」

「それは全然良いんですが、というか、か、鍵まで……」

「俺は出かけていることが多いからな。せっかく訪ねてきてくれたのに、会えなかったら悪いと思ってなんだが……め、迷惑だったか?」

「い、いえ! 全然! た、ただ、私が預かっていていいのかと……」

「当たり前だ。いつでも好きな時に遊びに来てくれ」


 爽やかに微笑むルイを前に、ソフィアはもはや眩しいと目を細めてしまった。

 ここ最近会う機会がなかったため、久しぶりにルイの顔を見ることが出来たと喜びを噛みしめていたところである。そこに突然、新居の住所とおまけに合鍵――身に余りある扱いを前に、ようやく自身が彼の恋人であったことを再認識した。


(う、嬉しい! けど、こう直球でくると心臓に悪い……!)


 どっどと走り始めた心音を必死に落ち着かせると、ソフィアは手の中にあったそれらを大切そうに握りしめた。つい顔がほころんでしまう。


「あ、ありがとう、ございます……」

「ああ。……良かった」


 ソフィアのその反応に満足したのか、ルイもまた優しく目を細めた――そのままソフィアの頭にそっと手を伸ばす。どうしたのだろう、とソフィアがわずかに身構えていると、結んでいる髪にするりと長い指が通る。

 先ほどクライヴに触れられた時は緊張しかなかったが、ルイの手だというだけで顔が喜びと羞恥に染まっていく。ソフィアはたまらず、上目遣いでルイに尋ねた。


「あ、あの、ルイ先輩?」

「……あ、いや、すまない。その……」

「……?」


 珍しく歯切れの悪いルイに、ソフィアは首を傾げる。

 すると観念したのか、ルイがわずかに眉を寄せながら瞑目した。


「その……そのままに、……したくなかったから」

「え?」

「……クライヴ殿下に触られたままに、したくなかったんだ」


 その意味を察した瞬間、ソフィアはいよいよ赤面した。

 クライヴ殿下が手慰みに触れたあれが、ルイはどうしても気になっていたのだろう。あの場ではそんな感情、微塵も感じさせなかったのにとソフィアは困惑する。

 より一層恥ずかしさが増し、つい逃げ出したくなるのを懸命に堪えていると、ようやくルイの手が離れた。


「わ、悪い。何を言っているんだろうな、俺は」

「い、いえ、その」

「じゃあ俺は仕事があるからこれで。……君と同じ任務につけて、良かった」


 そう言うとルイは軽く微笑んだあと、すぐさま騎士団棟に踵を返した。ソフィアはその背中を茫然と見送った後、先ほど撫でられた髪の端を左手でくしゃりと握りしめる。


(が、頑張ろう……!)


 もう一つの手のひらに残る、王都の住所と小さな鍵。

 ソフィアはそれを静かに見つめると、嬉しさを噛みしめるように口元を緩めた。






 その翌日、ソフィアは開いた口が塞がらなかった。


(ど、どうして……)


 教壇に立っているのは、昨日会ったばかりのクライヴ殿下。その隣には相変わらず冷たい風貌のアシュヴィンもおり、他人の空似ではないと分かる。突然現れた華やかな容姿のクライヴに、女子生徒たちはわかりやすく気持ちを浮き立たせていた。

 やがて教師が、どこか緊張した様子で口を開く。


「えー今日からディーレンタウンに通うこととなった、留学生のお二人です」

「クライヴです。この学校は可愛い子ばかりで嬉しいなあ」

「アシュヴィンと申します」

(なんで! ここにいるの⁉)


 花が咲くようなクライヴの微笑みにあてられたのか、女子生徒たちの大半は目がハートマークになっていた。ルイという憧憬の対象を失ったこともあり、新しい王子様の登場に色めき立つのも無理はない。


(実際、王子様候補ではあるけれど……)


 学校――ましてやこのディーレンタウンに転校してくるとは聞いていない。

 一体どこまでが事情を知っているのだろうか、とソフィアは冷や汗をかきながら、そろりそろりと身を隠そうとする。しかしそんな努力も虚しく、クライヴは目ざとくソフィアを見つけると、実に嬉しそうに声を張り上げた。


「ソフィア、これでクラスメイトだな」

(……)


 クラス中の視線が、音を立ててソフィアの方に向いた。

 以前もこんなやり取りをしたことがあるような、と逃げ場を失ったソフィアは思わず額に手を当てる。やや恨みがましく二人の方を覗き見ると、それぞれ驚愕と呆れの表情を浮かべたアイザックとエディの視線が、しっかりこちらを向いているのであった。






「――クライヴ殿下! 一体どうして、こんなところにおられるんですか⁉」

「殿下はいらないと言っただろ? 様も禁止」

「そんな話をしに来たのではありません!」


 最初の休み時間に入った直後、ソフィアは一目散にクライヴを別室へと連れ出した。当然護衛であるアシュヴィンもついてきており、今はしれっとした顔で二人の動向を眺めている。


「いや、せっかくの機会だから、こちらの文化を学ぶために学校に通おうと思っていたんだよ。そしたら昨日君がここの生徒だと聞いて、なら都合がいいかと」

「なんの都合です⁉」

「ここはセキュリティの面でも信用出来るみたいだし。だから今朝方、急いで話を回してもらったんだ」

「今朝……?」


 なるほど教師が不自然な態度をとっていたのは、突然押し込まれた留学生に対するものだったのだろう。言いたいことは山ほどあるが言語化するのに時間がかかり、ソフィアはええとと苦悶する。


「……勉強なさりたいのであれば、王宮で家庭教師の依頼をすることも出来るはずです。王太子候補ともあろう方がこんなところにいて、何かあったら……」

「うん。だから内緒にしておいてくれる?」

「はい?」

「わたしが王太子候補であることは、生徒たちには伝えないでいて欲しい。変に委縮されるのも、詮索されるのも好まないからね。あくまでもただの留学生ということで」

(無茶を……言う……)


 藁にもすがる思いで、ソフィアはちらとアシュヴィンに目を向けた。だが彼は己の主の暴挙を気にも留めないといった様子で、物言わぬ人形のように佇んでいる。

 一方クライヴは大丈夫大丈夫、と軽く笑った。


「気にかけてもらえるのは嬉しいけど、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。わたしは王太子になる可能性が一番低いし。だから暗殺とか誘拐とか、そこまで警戒する必要はない。実際本国にいた時もなんともなかったからね」

「可能性が低い、ですか?」

「うん。だからソフィアも、普通のクラスメイトとして接してほしい」


 にこにこと嬉しそうなクライヴを前に、ソフィアは心の中だけで嘆息を漏らした。確かに護衛任務は引き受けたが、まさか学校の中でまでとは。


(それにしたって、正体をばらさないまま護衛をするなんて……)


 しかし色々言っても仕方がない、とソフィアはいよいよ諦めの境地に入った。痛むこめかみを押さえながら、渋々手を挙げる。


「……とりあえず、このことは団長に報告します。そして私一人だけでは十分な護衛体制が保証できないため、許可を得次第、この学校に通う騎士団関係者には殿下のことをお伝えします。それはよろしいですか」

「殿下じゃなくて」

「クライヴさん!」

「同い年なのに?」

「ク、クライヴ……?」

「いいね。それで」


 もはや何が「いいね」なのか。

 やがてクライヴは満足げに微笑んだ後、ソフィアの隣に立った。ソフィアが訝しむように彼を見上げていると、その指が赤毛に伸びてくる。


「普段は下ろしているんだね。可愛い」

「――ッ⁉」


 そう言うとクライヴは、ひと房を手ですくい上げると、ちゅと口づけた。あまりに突然の行動にソフィアは目を大きく見開いたまま硬直する。従者のアシュヴィンは慣れているのか、こちらを見る素振りすら見せない。


「な、何を」

「今度、この赤髪(ガーネット)によく合う装飾品を作らせよう。楽しみにしてて」


 クライヴははっはと快活に笑いながら部屋を後にし、アシュヴィンもそれに続いた。

 一人残されたソフィアは、信じられないものを見たとばかりに、彼に触れられた髪を何度も何度も整えていた。



 

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