番外編:答え合わせは、卒業式の後で
その日、ソフィアは図書室で一人うんうんと唸っていた。
(どうしよう……どうしてもここだけ分からない……!)
レオハルトたち反王政派が引き起こした一連の事件により、満身創痍となったソフィアたちは入院を余儀なくされていた。
特に怪我の度合いが酷かったソフィアは、回復まで相当の時間がかかるだろうと思われていたが、そこは持ち前のゴリラの加護のおかげか、驚くべき速度で以前の体調を取り戻した。
そしてようやく医者の許可がおり、昨日からディーレンタウンに復帰したのだが――戻って早々、担任教師から言われた「昇級試験に間に合ってよかったな」という言葉に思わず目を見張る。
(うう……試験まであと四日しかないし……)
最初はアイザックかエディに教えてもらおうかとも考えた。だが二人も同じ試験を受けるのだから、出来れば自分の勉強に集中したい時期だろう。ソフィアはふるふると首を振ると、再度問題集に向き直る。
だが何度読んでも、視点を変えても、そもそも書かれている問題文の意味が分からない。これを習った時期がちょうど入院の時期と被るため、重要な部分を授業で聞き逃してしまったのだろうか。
戦闘系最強と言われるゴリラの神も、さすがに勉強面では何の加護も与えてくれないようだ。
(ここだけ諦める? でも、もしここの配点が大きかったら……)
すると苦悶するソフィアの隣に、ふっと人型の影が落ちた。不思議に思い横を見ると、そこにはルイの姿があり、ソフィアは文字通り飛び上がる。
「ル、ルイ、先輩⁉」
「やっぱりソフィアか。後ろ姿でそうかと思って」
「ど、どうしてここに?」
「借りていた本を返しにな。そろそろ部屋を空けないといけないし」
「そ、そうでしたね……」
三年であるルイは、来月にはこの学校を卒業する。正騎士の認定試験に合格しているため、今後は王都で一人暮らしを始めるそうだ。
そのため今使っている寮の部屋を、片付けているところらしい。
「勉強か? 退院したばかりなのに熱心だな」
「は、はい……昇級試験があるので……」
「大変だな。今は何をしているんだ?」
あ、とソフィアが止める間もなく、ルイは机上の問題集を覗き込んだ。だがまったく進んでいないそれを見て、しばし目をしばたたかせる。
「そうか、解き始めたばかりだったんだな」
「そ、それが、その」
「邪魔をして悪かった。あまり無理はするなよ」
そう言うとルイはいつものように優しく微笑むと、手にしていた本をひらひらと振った。その光景を前に、ソフィアは一瞬だけ逡巡し――恥を堪えて頭を下げる。
「す、すみません、ルイ先輩……」
「うん? どうした」
「べ、勉強を……教えてください……」
初めて通されたルイの部屋は、なんともイメージ通りの空間だった。
「何も無くてすまない。今、飲み物を入れてくる」
「あ、お、お構いなく!」
黒とブラウンを基調とした家具。シンプルなベッドと勉強用の机が置かれており、足元には鍛錬用の器具が並べられている。なんというか噂に聞いたままの男の人の部屋、という感じだ。
そんな中一際目を引いたのは、窓辺に置かれた一本の木だった。巨大な鉢植えに植わっており、一番上は天井に付きそうなほどの高さがある。
「珍しいだろ?」
「え、いえ、そんなことは!」
「リスの体になると、部屋の中の移動もままならない時があってな。一時的な避難場所として使っているんだ」
なるほど、とソフィアは改めてそれを眺めた。変化したルイがこの幹や枝を伝い、するすると動いている姿を想像し、思わず可愛らしさを噛みしめる。
(い、いけない、いけない。真面目に勉強しないと!)
促され、ルイの勉強机の前に腰を下ろした。問題集やノートを並べていると、その端に大きめのカップが置かれる。するとソフィアの背後に立ったまま、ルイが机上のノートに目を落とした。
「で、どれが分からないんだ?」
「こ、この単元なんですけど……」
するとルイはしばらく問題集を見つめ、うんと口角を上げる。
「ここは最初につまずくと難しいところだな。まずは語句の確認からしていこう」
参考書に添って解説するルイの言葉に、ソフィアは一心に耳を傾けた。分かっていたと思い込んでいた部分が、実は違った意味合いを含んでいることが判明し、先ほどまで未知の言語と化していた問題文がようやく本当の問いに変わる。
ルイの説明は分かりやすく、非常に理路整然としていた。聞けば数学は比較的得意な科目らしく、他の教科も特段苦手なものはないそうだ。
どうやら騎士団の仕事で授業を抜けることが多かったため、試験だけは何としてでもクリアしなければというプレッシャーがあったらしい。
「す、すごく、分かりやすいです……!」
「そうか? なら良かった」
照れたように笑うルイに感謝しつつ、ソフィアはなんとか一問を解き上げた。一つ解けば要領がつかめたらしく、次の問題はルイの助言なしで取り組む。
(ええと、……この数字をあてはめて……)
大きな瞳をまっすぐにノートに向けるソフィアを、ルイは無言のまま、どこか嬉しそうに見つめていた。やがて自力で一問を終え、二問、三問と繰り返していくうち、ソフィアはようやくその解法のやり方を掴んでいく。
「で、出来そうな気がします!」
「見たところ、ひっかけにもちゃんと気づいているみたいだな。これなら試験も問題ないと思うぞ」
「あ、ありがとうございます……!」
これで昇級試験に間に合う、とソフィアはほっと胸を撫で下ろした。その様子があまりに分かりやすかったのか、ルイは苦笑しながら脇に置いていたカップを指し示す。
「少し休憩したらどうだ?」
「あ、はい。いただきます!」
せっかくルイが準備してくれたのに、とソフィアはすっかり中身の冷えたそれを慌てて手にした。ゆっくりと傾けるとぬるくなったコーヒーとミルク、そして――
「……キャラメル?」
「キャラメルナッツだ。香りを付けた砂糖を売っていてな。思わず買ってしまった」
コーヒーとは違う香ばしい芳香に、ソフィアは再度カップを両手に持つ。甘い香りが口いっぱいに広がり、それだけで幸せな気持ちになった。あっという間に飲み干してしまったのに気づいたのか、ルイがひょいとカップを取り上げる。
「待っていてくれ、温かいものを淹れ直してくる」
「す、すみません……」
部屋から出ていくルイを見送った後、ソフィアはあらためて彼の部屋を眺めた。よくよく考えてみれば初めて入ったわけで――と気付いた瞬間、心臓がうるさく音を立てる。
(うう、何だか緊張してきた……)
引っ越しの準備をしているのか、本棚は半分ほどしか埋まっておらず、全体的に物が少なくがらんとしているように見える。どことなく寂しく思いながら、ソフィアはそっと椅子から立ち上がった。
(ルイ先輩……卒業しちゃうんだな……)
今までは学校や食堂で見かける機会もあった。だが来月を越えてからは、学校で偶然会うという可能性はほぼない。正騎士としての仕事も始まるだろうし、きっと会える時間は今よりもずっと少なくなるだろう。
(私が従騎士のうちは、仕事で会えることもあるかもしれない。でもその先は?)
きっとルイは、正騎士になった後もどんどん自身の道を切り拓いていくだろう。
だがソフィアは? ゴリラの神の力によって従騎士になることは出来たものの、それから先をどうするか――どうしたいのか、まだ何も決められていない。
(一つだけ、……挑戦してみたい、道はあるけど……)
だがその道は女性であるソフィアにはあまりに険しく、おまけにまだ誰も通ったことのない未知の世界だ。自分に進めるだろうかと怖気づくと同時に、それを選ぶことでルイにどう思われるかが怖かった。
(私はまだ……騎士としての覚悟も、決心も出来ていない……こんな中途な気持ちでは……)
ソフィアはぐるぐると巡り始めた思考を断ち切るように、はあとため息をついた。すると途端に部屋のドアがガチャリと音を立て、二人分のカップを持ったルイが現れる。
「ソフィア? どうしたんだ?」
「あ、いえ! なんでもありません!」
そうか? とルイは微笑み、慣れた足取りでベッドへと腰かけた。じっとこちらを見てくるので、ソフィアは首を傾げながらそろそろと近づく。そのままカップを渡されたかと思うと、視線だけで隣に座るよう合図してきた。
「し、失礼します……」
出来るだけ自然に、と意識しすぎた不自然さで腰を下ろす。拳一つ分ほどの距離を空けて二人は座り、やがてルイが自身のカップを傾けた。それを見てソフィアも慌ててコーヒーを口に運ぶ。
(あ、さっきと違う味……)
ふわりと香るバニラの風味。ソフィアがちらりと視線を向けたのに気づいたのか、ルイはいたずらがばれた子どものように目を細めた。
「どうだ?」
「お、美味しいです!」
「良かった」
「か、可愛いマグカップですね」
「兄弟が誕生日にくれたんだ。そう言えば、ソフィアの誕生日はいつだ?」
「わ、私のは、加護の儀式の前なので……」
当たり障りのない会話だけを交わしていたが、いつしか話題がなくなり二人は沈黙する。初めての彼氏。二人だけの部屋。ソフィアは手にしたマグカップを下ろすことすら出来ず、ただひたすらに押し黙る。
(ど、どうしたらいいの……⁉ な、何か、した方が……?)
だがこれ以上近づく勇気もなく、気づけばマグカップは空になってしまっていた。あああ、と自らの愚行を悔いていると、隣にいたルイがんん、と奇妙な咳をする。
「ル、ルイ先輩?」
「あーいや、すまない、その……部屋に二人だと思うと、緊張してしまって」
「え、え?」
「そのせいで、もう飲み干してしまった。いよいよやることがなくなって、どうしようかと思ってな」
困ったように笑いながらルイが見せたカップは、底がはっきりと見える状態だった。それを目の当たりにしたソフィアはきょとんとし――すぐに「ふふ、」と笑いを零す。
「ソ、ソフィア?」
「あ、違うんです、その……私も、同じことをしてしまったので」
そう言いながら、手の中にあったカップを見せる。二人は互いに笑い合い、ようやく落ち着いた時にはすっかり緊張がほぐれていた。
「――ソフィア」
マグカップを脇に置き、ルイがそっと両腕を伸ばす。ソフィアは少しだけ逡巡したが、やがて体をぎゅっと固めたまま、彼の腕の中に身を寄せた。すぐにルイの腕が腰に回り、二人の距離がぴたりとゼロになる。
「……もう、傷はいいのか」
「はい。先輩は?」
「なんともない」
「良かった」
甘いバニラの残り香が漂い、ソフィアの体と心を温かく包み込む。やがてルイはわずかに力を込めると、ソフィアの耳元でささやいた。
「ソフィア、その」
「な、なんですか?」
「……いや、……何でもない」
(……?)
何かをためらうようなルイの様子に、ソフィアは少しだけ首を傾げた。だがこうして二人だけでゆっくりと過ごせる時間を失いたくなくて、そのまま何も言わず、彼の胸に頭を預ける。
(先輩は……私が正騎士になりたいと言ったら……どう思うかしら)
ソフィアが考えていた、たった一つの道。だが今それをルイに打ち明ける勇気はなく、ソフィアは空になったマグカップを両手で握りしめた。
様子のおかしいソフィアに気づいたのか、ルイが顔を覗き込んで来る。
「どうした?」
「あ、いえ、なんでもないです」
「そうか。……何かあったら、何でも言って欲しい」
伝えたいことはたくさんあった。
卒業しても、出来るだけ会いたいだとか。新しい仕事を頑張ってほしいとか。体に気をつけて欲しいとか。
しかし何から言葉にすべきか迷い、ソフィアはそろそろとルイを仰ぎ見る。するとそれを合図と勘違いしたのか、ルイが口づけを落としてきた。
(――ん、)
柔らかい唇の感触が触れ、すぐに離れた。
頬が熱い、とソフィアが慌てて顔を伏せると、ルイもまた顔を赤くして明後日の方向を向いてしまう。互いの行動が実に分かりやすく、二人はまたふは、と笑いあった。
「すまない。まだどうにも慣れなくてな」
「わ、私こそすみません! も、もう少し、頑張りますので……!」
「無理するな。まだ時間はたくさんある。これから少しずつ、二人で勉強していこう」
ルイのその言葉に、ソフィアは胸の奥にとどまっていた何かが、少しだけ軽くなったのが分かった。
ソフィアがどんな道を選ぼうとも、きっとルイはこうして傍にしてくれる。
それだけで、どんな道でも進んでいけるような気がした。
「ル、ルイ先輩」
「うん? どうし――」
恐る恐る呼びかけたソフィアは、今度は自身からルイに口づけた。残念ながら最後の最後に目を瞑ってしまったため、口ではなく顎の下の方にぶつかってしまう。
「す、すみません!」
「い、いや、気にするな」
ソフィアの取り乱し方が面白かったのか、ルイは笑いをかみ殺すように口元を押さえていた。その様子にソフィアが眉を寄せていると、悪い悪いと言いながら再び強く抱きしめられる。
「ソフィア。……これからも、俺の傍にいてくれるか」
「……はい。私で良ければ」
その返事を聞いたルイは、改めてソフィアの顎に手を添えると、先ほどより長くキスをした。ソフィアもまた懸命にそれを受け止めていたが、やがて呼吸の限界とばかりにぷはと息を切らす。
顔を上げた途端、どこか満足げなルイと目が合ってしまい、羞恥を堪えるように手に力を込めた。その瞬間――ずっと握りしめていたマグカップがばきりと音を立てる。
「あ、あああー⁉」
見ればマグカップは、見事に本体と取っ手の部分で二分割されていた。顔面蒼白で半泣きになるソフィアに対し、持ち主であるルイは平然としている。
「す、すみません! わ、私がゴリラなせいで――」
「気にするな。弟には俺から謝っておくし、だいぶ古かったからちょうどいい」
「へ?」
「今度街に新しいのを買いに行こう。出来ればお揃いのを」
「お揃い?」
「そうすれば……離れていても使うたびに、ソフィアが俺のことを思い出してくれるだろう?」
予想もしない提案に、ソフィアはしばし言葉を失っていた。だがようやく言われていることの意味を理解すると、たちまち頬に朱を走らせる。
脳内ではゴリラの神が、いい仕事をしただろう? とばかりにサムズアップしていた。
(了)












