第四章 9
「――ぼくの邪魔をするな、犬猫どもが!」
空間全体が震えるような怒号の後、レオハルトはアイザックをつかむと、壁面に向けて力の限り投げ飛ばした。
窓ガラスが大破し、頭上のシャンデリアが大きく揺れる。
レオハルトは続けざまに、エディめがけてナイフを投擲した。間一髪逃れたようだが、アーシェントがぐらりと体勢を崩している。
(みんなが助けてくれた……あとは、私が……!)
ソフィアは再び立ち上がると、素手になったレオハルトに立ち向かった。だが既にソフィアの体力も気力も限界を迎えており、レオハルトははっと呆れたように笑った。
「まだやるのかい? 女の子がそんなに傷だらけになって……どうして、そこまでして戦うの? ぼくのところに来ると――それだけ言ってくれたらこんなこと、すぐにやめてあげるのに」
「私は、守られたいわけじゃ、ないんです!」
なけなしの力を込めて、ソフィアはレオハルトに殴りかかった。レオハルトもだいぶ疲労が蓄積しているのだろうか。
少しだけ体をよろめかせると、一歩ずつじりじりと後ろに下がっていく。
「守られたいわけじゃない……じゃあ、どうしたいの?」
「私は――守りたい……! 大切な人や、場所を、私が……!」
切れた唇を噛みしめて、ソフィアは切れ切れに呟いた。
最後の力を振り絞ってレオハルトに拳を突き立て、それによって彼の体がぐらりと後ろに引きずられた――その直後。
不規則に揺れていた天井のシャンデリアが、ずしゃりと落下した。
その場所は――レオハルトがいたちょうど真上。
さきほどまで立っていた彼の姿はなく、代わりに涙型にカットされたガラス片が、無残な形で絨毯に巻き散らかされている。
(や、……った……?)
ソフィアは足を引きずりながらその場にしゃがみ込んだ。大きく歪曲したシャンデリアの骨組みの下に、レオハルトの腕がのぞいている。
驚くべきことに『豹の加護者』もまたゴリラと同様体が頑強に出来ているらしく――この重量が載っているというのに、まだわずかに動いていた。
だがさすがにこれを持ち上げる気力はないようで、しばらくは出てこられないだろう。
ようやく息をつくソフィアの前に、のそのそと見慣れた毛玉が這い出てきた。
「――ルイ先輩!」
「……」
血みどろになったリスは、ソフィアの足元までたどり着くと、ぺしゃりと倒れ込んだ。
ソフィアが両手で抱き上げると、浅い呼吸を繰り返しながら、黒目がちな瞳を何度か瞬かせる。ソフィアはたまらず、頬をリスの顔に寄せた。
「……ありがとうございます、先輩……」
――射撃隊の攻勢が始まった時。ソフィアが見たのは、シャンデリアの金具部分によじ登っているリスの姿だった。
おそらくレオハルトにやられた後、人間体を維持出来なくなり変身したのだろう、と察したのと同時に、ソフィアは彼が何を狙っているのかを瞬時に理解する。
大ホールの中でも最も豪奢なシャンデリア。
あれが落ちてくれば、いくら豹の加護者とはいえ、ひとたまりもないだろう。
ルイが残された力を振り絞ってシャンデリアの固定具を削る間、ソフィアたちは懸命にレオハルトをその位置に押し込み誘導した。
決して天井の異変に気付かれぬよう、闇雲に戦いを挑んでいるというふりをして。
「先輩、先輩……ごめんなさい、ごめんなさい……」
きゅい、と小さな鳴き声が返ってくる。
まるで「大丈夫だ」と言われているかのようで、堪えていた涙腺が決壊したソフィアは、ようやくぼろぼろと安堵の涙を零すのであった。
次に目覚めた時、ソフィアは病室のベッドの上にいた。
見慣れない天井を前に目をしばたたかせていると、カリッサとアレーネが覗き込んでくる。
「ソフィア! 目が覚めましたのね!」
「ここは……?」
「王立病院ですわ。あなたは気絶して今まで眠っていたのです」
ゆっくり頭を上げると肩や腕、腹筋までもが痺れるように痛んだ。顔を顰めながらなんとか起き上がると、奥にいたアイザックとエディが立ち上がる。
「ソフィア! 大丈夫か?」
「うん、まだ痛むけど平気。それよりアイザックは?」
「俺も少し前に目が覚めて、慌ててこっちに来たところだ」
「お前たち……あれ以上続けていたら本気で危なかったんだからな」
不機嫌そうに眉を寄せたエディが、はあとため息を零した。つい夢中で、と苦笑いするソフィアだったが、何かを思い出したかのようにはっと目を開く。
「そ、そういえばエディ! 大丈夫だったの⁉」
「当たり前だ」
「で、でも四階の屋上からなんて……」
悲痛な表情を浮かべるソフィアを前に、エディは腕を組み人差し指をたしたしと上下させていた。だが、はあああと先ほどより深い嘆息を漏らしたかと思うと、観念したかのように口を開く。
「僕は――『猫の加護者』だ」
「ね」
「こ」
ソフィアとアイザックが、それぞれ一音を発する。するとエディはわずかに頬を染めながら「だから嫌だったんだ」とぼやいた。
「うるさいな! 僕だってもっとお前たちみたいな戦闘型の加護が良かったさ! でも選ばれたからには仕方がないだろう⁉」
猫はかなりの高さから落下しても姿勢を正し、無事に着地できるという。この加護のおかげでエディは助かったのだそうだ。
言われてみれば従騎士試験の際にも、ロープなしで結構な高さから降り立っていた気がする。
「そ、そんなつもりじゃ! それに私は猫、良いと思うけど。可愛いし」
「おれも良いとおもうぞ! 可愛いし!」
「そう言われるのが嫌だったんだよ!」
心なしかフシャーと毛を逆立てているエディをよそに、ソフィアの両脇にいたカリッサとアレーネが安堵したように微笑みかけた。
「まったく……まさかあなたが従騎士だなんて、思いもしませんでしたわ」
「ええと、その……」
「――助けてくれたことに感謝いたします。……それから、い、いままで、……悪かったですわね」
へ、と口を開きぽかんとするソフィアに向けて、アレーネも言葉を紡ぐ。
「わたしも、ずっと謝りたかったの……倉庫に閉じ込めたりして、ごめんなさい。ちゃんと嫌なことは嫌だって、言うべきだったのに……」
「ち、違うんですのよソフィア! この子がしたのは、私に命令されたからであって、別にこの子が悪いわけでは……」
何故かわたわたとするカリッサと、半泣きになっているアレーネを見ながら、ソフィアはようやく相好を崩した。
「私の方こそ、ありがとう。あの時二人が一緒に来てくれて。すごく心強かった」
「ソフィア……」
ふにゃりと笑うソフィアを見て、カリッサは目の縁に涙を浮かべ始めた。アレーネは既にえぐえぐとしゃくりあげており、三人はそろって泣き笑いのような状態になる。
生きている。
あの悪夢のような夜を越えて、生き残ったのだ。
やがてカリッサが涙を拭うと、そういえばと切り出した。
「スカーレル先輩もこの病院にいるそうですわ。部屋はたしか――」
「――ルイ先輩!」
カリッサの言葉が終わるのを待たずして、ソフィアはベッドを飛び出した。あまりの速度に茫然とする四人を残し、ソフィアはカリッサが告げた部屋番号を探し求める。
ルイのいる病室はソフィアのいる階の一つ上――特に重篤な患者が集められているフロアだ。
(ルイ先輩、どうしよう……ルイ先輩……)
ようやくたどり着いた部屋の前で、ソフィアは何度も番号を確認する。小さくノックをして扉を開くと――そこには驚きに目を見開くルイの姿があった。
「ルイ……先輩……?」
「ソフィア……?」
恐る恐る近づく。
上体を起こしベッドに座るルイは、額と首、肩から腹へと全身を包帯で巻かれていた。その見るだに痛々しい恰好に、ソフィアはたまらずその場で足を止める。
だがルイはゆっくりと微笑むと「こっちに来い」と手招いた。少しだけ安堵したソフィアは、誘われるまま近くにあった丸椅子へと腰かける。
「良かった、無事だったんだな」
「先輩こそ、大丈夫ですか? その、傷……」
「ああ。まだ少し痛むが、ちゃんと元通りになるそうだ」
「よかった……。でもどうして先輩だけ、こんなに、ひどい……」
「ああ、それは」
聞くところによると、事件の夜、ルイは一人だけレオハルトに呼び出されたらしい。ソフィアとのことを尋ねられ、拒否したところ犯人たちから手酷い暴行を受けたのだと。
「私とのことって……何を言われたんですか?」
「君と――別れろ、と。だから俺は『断る』と伝えた」
どうやらこの襲撃事件には、ディーレンタウンという学舎を制圧する以外に、『ソフィアを仲間に引き入れる』という目的があったようだ。
ルイを操ってソフィアの心を懐柔し、弱ったところをレオハルトの手で優しく攫い出す――はずが、見事にその野望は砕かれてしまった。
ルイがはっきりと別れを拒絶してくれたことを知り、ソフィアは胸の奥がじわりと熱くなる。だが少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。












