第四章 7
「ふざけないで! 何を言っているか分かっているの⁉」
「もちろん本気さ。だって君は『ゴリラの加護者』だろう?」
さらりと零れたレオハルトの言葉に、ソフィアはこくりと息を吞んだ。
「⁉ どうして、それを」
「ぼくはね。鼻がいいから大体の加護が分かるんだ」
ソフィアは逃げつつも、隙を見つけては拳を振り上げた。しかしレオハルトは器用にすべてを躱し続ける。
「君は、世界でたった一人の『ゴリラの加護者』――ぼくのつがいには、これ以上ないほどの適役だとは思わないか?」
「何を言っているのか、意味が、分かりません!」
ソフィアの呼気が荒れ始めた。長時間の戦闘で、力をふるい続けてきたせいだろうか。
だがここで諦めるわけにはいかないと、ソフィアは足を止めるとすばやく身構え――渾身の一撃をレオハルトめがけて放つ。
しかしレオハルトは、右手を大きく開いたかと思うと、ソフィアの手を掴むようにして衝撃ごと受け止めた。
「――ッ⁉」
「ふふ、さすがに効くね」
言葉とは裏腹に、まったくダメージを与えられていない。レオハルトは絶望するソフィアの手を強く握り締めたかと思うと、酩酊しているかのようにうっとりと口元を歪めた。
「――ねえ、ゴリラの天敵って知ってる?」
「……」
「正解はね、『ヒョウ』だ。そしてぼくは――『豹の加護者』なんだよ」
そう言いながらレオハルトは、もう一方の拳をソフィアに突き立てた。
だがソフィアは素早くかわし、掴まれていた手を必死に振りほどく。なんとかレオハルトの拘束からは解放されたものの、心臓はどくどくと拍動を加速させていた。
「豹の、加護者……?」
「うん。『戦闘系最強クラスの加護』って二つあるのは知っているよね。君の持つ『ゴリラの神』が一つ。そしてもう一つが――『豹の神』だ。たしかに他の加護者に比べて、強化される能力の種類と量が圧倒的に違うからなあ」
でもそれだけじゃない、とレオハルトは片手をぶらぶらと揺らした。
「これはあまり知られていないんだけど……その強すぎる能力故か、この二つの加護者に限っては『一つの時代に、一人の加護者しか現れない』そうだ。まあそれを知ったのは、ぼくが『豹の加護者』に選ばれた時だったけど――つまり君とぼくは、互いに世界に一人しかいない最強の加護者……運命を感じるには、十分すぎると思わない?」
「……まったく思わないわ」
はっきりと言い切った後、ソフィアは再びレオハルトめがけて拳を放った。レオハルトは優雅な所作でそれを受けとめ反撃する。
ソフィアがいなして次手を――と繰り返すうち、互いの攻撃はどんどんと速度を上げていった。 拮抗した力での競り合いに、レオハルトは実に楽しそうに一笑する。
「だってさ、君とぼくが組んだら世界最強ってことなんだよ? この国だって、なんなら世界だって牛耳ることが出来る。最高と思わない?」
「私は自分の力を、そんなことに、使う気は、ありません!」
「……はあ。見事に言いくるめられてるなあ」
大の男を吹き飛ばすソフィアの一撃を、レオハルトはまるで子猫と戯れるかのように受け流す。
空気の塊がはじけるような高い音が響き合い、二人の立ち回りは傍から見て理解の出来ない神速に達していた。
(この人……全然、効いてない……!)
わずかにソフィアに疲労の色が見え始めた。それに気づいたレオハルトは、慈しむような視線をソフィアに向ける。
「――君はゴリラの加護者に選ばれ、すぐに従騎士団へ所属させられた」
「それが、何だと、いうんですか!」
「おかしいとは思わなかった? どうして選ばれた加護の種類だけで、その後の人生まで決められてしまうのか」
「……」
「ぼくは嫌だった。だから自由に生きることにした。それだけだよ」
するとレオハルトが、軽く握った手をソフィアの目の前に差し出した。反射的に動きを止めたソフィアの額めがけて、ぴしりと人差し指を弾く。
ソフィアの頭は大きく後ろに傾ぎ、脳自体がぐわんぐわんと揺さぶられるようだった。
「――く、あ、……」
「君は優しい。戦うことに向いていない。ゴリラの加護者だからといって、戦いに駆り出される理由はないはずだ」
続けざまにレオハルトの右手がソフィアの顎にあてがわれた。ぐ、と込められる力に、ソフィアの視界はくらくらと明滅する。
「……っ、」
「ぼくの傍にいてくれるなら、何もしなくていいと約束するよ。好きなだけ本を読んでもいいし、美味しい食事を贅沢に味わってもいい――ぼくが存分に君を愛してあげる。だってぼくたちは世界にたった一人しかいない、運命のつがいなんだから……」
琥珀を押し固めたような、レオハルトの金の瞳が妖しく揺れる。端正な美貌がソフィアの元に近づいて来て、やがて静かに唇が押し当てられた。
(――い、や!)
ううー、とくぐもった悲鳴をソフィアが上げた直後、レオハルトがばっと顔を引き離した。赤い舌をちらりと見せながら、苦々しくレオハルトが呟く。
「……まだ噛みつく元気があるとはね」
「――ッ、冗談じゃ、ないわ!」
ソフィアは膝でレオハルトの肘を叩き上げると、無理やりに顎の拘束を解いた。すぐに後退し距離を保った後、ぜい、と手の甲で何度も口を拭いながら肩を上下させる。
「たしかに私も最初は……こんな力、いらないって、思ってた……。でも……この力のおかげで、助けられたものが、いくつもあった」
アイザックも。エディも。この学校も。
どうして自分にこんな力が、と何度も恨んだ。
だが気づけばその力に何度も救いを得ていた。
「あなたの言う通り、私は戦いには向いてない。……でもこの力は、誰かを傷つけるために使うものじゃない!」
ソフィアの言葉に、レオハルトは「はあ」とため息をついた。舞台で倒れているルイをちらと一瞥すると、苛立ったように呟く。
「すっかり懐柔されちゃってるなあ。やっぱりあの男のせいか……早めに殺しておくべきだった」
「そんなこと、させない!」
ようやく息を整えたソフィアは、足裏に力を込めすばやく跳躍した。彼我の距離が一気に縮まり、レオハルトに向けて渾身の一打を放つ。
だが彼は予測していたかのようにソフィアの拳を捕えると、軽く力をいなした。
「カリッサなんかに媚びを売る暇があったら、もっと早く君を口説けばよかった。あの時はまだ、あいつと恋仲ではなかったんだろう?」
「……ッ!」
「あんなリス野郎より、絶対ぼくの方が君を幸せに出来るのになあ。……ああ、もう仕方ないか」
これだけはしたくなかったんだけど、とレオハルトが零す。
するとソフィアの胴体に重く鋭い塊が叩きつけられた――レオハルトの前腕部だったと気づいたのは、後方に吹っ飛ばされたソフィアが窓枠に磔になってからのことだ。
「……⁉ ……ッ」
「この方法だけはしたくなかったんだけど」
げほ、と喉に詰まった息を吐きだすソフィアの前に、レオハルトの靴先が並んだ。そのままソフィアの首を掴むと、瓦礫の中から引きずり出すように持ち上げる。
「……く、るし……」
「ゴリラの加護者は世界に一人だけ。君がどうしてもぼくを好きにならないというのなら……『新しいゴリラの加護者』を生み出すしかないよね」
「……⁉」
「君を殺せば、数年後、どこかで新しいゴリラの加護者が生まれるかもしれない。確率が恐ろしく悪いからやりたくないんだけど、君に拒絶され続けることの方が、ぼくには耐えられない」
ぐ、とレオハルトの手に力が籠り、ソフィアは気道が細くなるのを感じた。ひゅー、と頼りない息が漏れ、ソフィアはいよいよ限界かと目を瞑る。
レオハルトはそんなソフィアを見つめながら、愛しい恋人に語りかけるかのように甘く告げた。
「ごめんね――次に生まれた時は、誰より先に迎えに行くから」
「……」
霞む視界に映るレオハルトは、本気で涙を流しているようだった。ソフィアは彼の頬を伝う雫を見ながら、次第に意識が遠のくのを感じる。
(ルイ先輩……ごめん、なさい……)
いよいよ酸素が足りなくなったのか、目の前が幽暗に閉ざされる。
だが――突然レオハルトの手が離れ、ソフィアはその場にどさりと落下した。げほごほと急速に膨らむ肺を宥めながら、ソフィアは恐る恐る顔を上げる。
不明瞭だった眼界が晴れ、黒髪が虹彩に映り込んだ。
「――ルイ、先輩」
「……ソフィアから、はなれろ……」
そこにいたのはレオハルトの首筋に刃を突きつける、傷だらけのルイ・スカーレルだった。












