第一章 4
次に連れてこられたのは、城壁の一角にある石造りの巨大な塔だった。どうやら前のグループがまだ終わっていないらしく、その試験内容を目にしたソフィアは絶句する。
(もしかして、これを降りるの……⁉)
塔の高さは二十メートルほど。
一番上の窓から目の錯覚かと疑いたくなるような、頼りない紐が一本ぶら下がっている。その端は真下の地面まで垂れ下がっており、中腹あたりに受験生の一人がしがみついていた。風が強いせいか、時折左右に揺れているのがなんとも心もとない。
「ああ、ちょうどいい。次の試験はあれだ」
「ルイ様、あれって……」
「懸垂下降。ロープを使っていかに早く地上まで下りるかを測定する」
先ほどの受験生がまさに這う這うの体で着地した後、ソフィアたちのグループは最上階まで上がるよう指示された。塔の中は古めかしい螺旋階段で埋まっており、登っていくだけで目が回ってしまいそうだ。
やがて最上階にたどり着くと、正面にぽかりと開いた大きな窓があった。窓枠には小さな杭が打ち込まれており、そこには命を懸けるにはあまりにもか細い、一本の綱が結ばれている。
「準備が出来たものから降りてこい! 誰からでもいいぞ」
窓の下から爽やかに呼びかけるルイに対し、一同はあからさまな不安を滲ませていた。
もちろんソフィアとて同じだ。
(む、無理無理無理……あんなロープ一本でだなんて……)
案の定、お前がいけよ、いやお前がと互いに譲り合う膠着状態に陥ってしまった。
ソフィアは先ほどのような勢いを願って、アイザックに視線を送ってみる――がそこで、恐ろしいほど青ざめている彼の姿を目撃した。心なしか全身が震えており、ソフィアは思わず声をかける。
「え、ええと、アイザックさん、でしたっけ」
「……」
「もしかして、高いところ、苦手なんですか?」
どうやら図星だったらしく、アイザックはその大きな瞳を潤ませながら、しきりにぶんぶんと首を縦に振った。先だっての百メートル走の時に見せた勇姿はどこへやら、といった状態だ。
さすがにかわいそうになり、ソフィアはなおもアイザックに声をかけようとした。
するとほぼ同時に、おお、と男たちのどよめきが立ち上った。振り返ると一人の少年がロープを手にし、今まさに窓辺に乗り上げているではないか。
「――エディ・フェレス。行きます」
エディと宣言した少年は、アイザックと同様、ソフィアとさほど変わらない歳に見えた。
艶めいた髪は青みがかっており、目じりは涼やかに吊り上がっている。他の受験生に比べると細身で、とりたてて筋肉質というわけでもない。
だがエディはロープを腰に巻き付けると、ひょいと簡単に窓枠から身を下ろした。
さすがに驚いたソフィアや、互いに譲り合っていた受験生たちが、恐る恐る窓から下を覗き込む。するとエディは全身のばねを使って、弾むようにして降下していき、やがて三階付近になるとするり、と腰に巻いていたロープをほどいた。
(――あ!)
何をする気、とソフィアが息を吞む。
だが当のエディはそのままロープを手放すと、くるんと優雅に逆回転しながら着地した。
(嘘でしょ……まだ結構な高さが残っていたのに……)
その魔法のような光景を目の当たりにした受験生たちは、ソフィアと同じくまるで狐につままれたような顔を並べていた。そのうちに下からルイの声が飛んでくる。
「次は誰がいく? 降りないと失格になるぞ」
「く、くそ、行くしかねえ……」
恐怖を堪えながら、ようやく一人、また一人と覚悟を決めたものからロープを手にしていく。
いつしか人の数は半分になり、三分の一になり、最後に残ったのはソフィアとアイザックだけだった。
(どうしよう……私が失格になるのは別にいいんだけど……)
改めてアイザックを見る。よほど怖いのか、窓から一番遠い場所で背中を向けたままぶるぶると縮こまっていた。その姿があまりにいたたまれなくて、ソフィアは思わず声をかけてしまう。
「あの、これ下りないと、失格になるみたいですけど……」
「む、無理だ……」
「でもあの、皆さん、従騎士になりたくて来てるんですよね?」
「うう、……」
先ほどの試験の際、一番に名乗りを上げた度胸といい、きっとアイザックは本当に従騎士になりたくてここまで来たのだろう。実際足だって誰よりも――まあイレギュラーはあったが――早かった。
それなのに、この降下試験だけで印象を損ねてしまうのはあまりにかわいそうだ。
どうしよう。
ソフィアは少しだけ唇を噛むと、思い切って提案した。
「あの、私が先に下りるので、そのすぐ上に続くのはどうでしょうか」
「……え?」
「だ、だから、もしロープから手が離れても、下に私がいれば受けとめられる、ような……」
思い付きで口にしたソフィアだったが、正直なところ自信はなかった。
ゴリラの加護者であることも明かしていないし、こんな女の細腕で受け止めるなどと言われても噴飯ものでしかないだろう。
実際ソフィアだって、本当にアイザックが落ちてきた場合、無事でいられる確証はない。
(でも、たった一人で降りるよりは、少しは違うかもしれない……)
そんなソフィアの言葉を、半泣きに近い瞳をしたアイザックが、ただ噛みしめるように聞いていた。
何度か不安げに瞬いていたが、ようやく観念したのかゆっくりと立ち上がる。
「……ごめん。女の子にここまで心配させて、……おれ、みっともなかったね」
「そ、そんなことはありません! 誰にでも怖いものの一つや二つありますよ」
「……うん、ありがとう――ねえ君、名前は?」
「え、ええと、ソフィアといいます」
「ソフィアか。うん。素敵な名前だね……」
やがてアイザックはふうーと気を吐き出すと、静かに顔を上げた。
「ソフィア、……悪いけれど一緒に降りてくれるかな」
「は、はい!」
ようやく心を決めたらしいアイザックの言葉に、ソフィアは少しだけ嬉しくなった。
やがて覚悟を決めた二人はそろそろと窓辺に近づく。覗き込むと、下から吹き上げる風が額にあたり、それだけで背筋がぞぞぞと冷えるようだった。
「じゃ、じゃあ、予定通り、私が下で行きます」
「う、ご、ごめん、絶対落ちないようには、するから……」
頼りなく揺れるロープを掴み、まずはソフィアが窓枠から体を出す。少し降りたところで、がちがちに震えるアイザックが背中を見せた。
「下を見ちゃダメです! 壁かロープを見て、慎重に、ゆっくり!」
「わ、わかった……」
どうやら二人分の体重が重しとなっているのか、今までの受験生に比べ、比較的ロープの揺れが少ないようだった。
ソフィア自身も恐怖に飲まれそうになりながらも、必死に上を向いてはアイザックを励ます。
やがて一つ下の窓に足を掛け、ソフィアは一旦アイザックの到着を待った。彼が窓辺に到着すると、また次の窓へ。
早さを競う試験なのは理解しているが、とにかく安全にアイザックを誘導する方が重要だった。
(やっと半分……あと少し……)
アイザックも少し気持ちが落ち着いたのか、降りる速度がわずかにだが早まっているようだ。ソフィアは自身に喝を入れながら、再び窓枠から足を離そうとする。
だがその時、ぶわり、と呼吸を邪魔するほどの突風が吹いた。同時にソフィアたちが掴んでいるロープが、生き物のように歪曲する。












