第三章 2
「エディ、大丈夫?」
「――ああ」
先ほどからエディの様子がおかしい。
足元はふらついており、踏み出す歩幅も狭まっている。
「大丈夫か? 少し荷物持とうか」
「いらない。これくらい、何ともない……」
アイザックも気づいていたらしく、進言するもきっぱりと断られてしまった。ソフィアも荷物を肩代わりしようかと思っていたのだが、すぐに言葉を呑み込む。
はらはらとした面持ちのまま前を向くと、先頭の方から新しい指示が飛んで来た。
どうやらこの先、道幅が狭い部分があるので一列に組みなおせ、とのことだ。
すぐに隊列が変わり、先ほどより慎重に足を進めていく。ソフィアもまた足場を確認しながら、そろりそろりと道を歩んだ。
その時、突然強い山風が吹き込む。
「――ッ」
体が傾ぎ、ソフィアは慌てて足を踏ん張った。
カラ、と小さな石が足元を転がり、ソフィアはふうと息をつく。だが先ほどより強い風が吹き荒れ、ソフィアはゴーグルの奥で強く目を瞑った。
(――あ、)
ようやく目を開いた瞬間、前を歩いていたエディの体が大きく傾いた。ソフィアはとっさに手を伸ばし、がしりと彼の腕を掴む。
途端に恐ろしいほどの重量が手首に集中し、ソフィアの筋肉はびきと悲鳴を上げた。
「エディ!」
「……ソフィア!」
下は崖と言っても過言ではないほどの急斜面。滑落すれば木々に身を削られるか、岩石によって骨を砕かれるかのどちらかだ。ソフィアは恐怖で震えながらも、必死になってエディの腕を引き上げようとする。
だがさすがに体勢が悪すぎるのか、じりじりとエディの体は下がっていく。
「ソフィア! 手を!」
「……ッ」
後ろにいたアイザックが慌てて加勢に入ろうとした。だがあまりの高さに怯えたのか、一瞬だけ動きが止まる。
そこに三度目の風が二人を襲い、視界が一気に奪われた。
エディの体が大きく揺れるのを感じたソフィアは今しかない、と――隙を見て力の限り彼を引き上げる。
「――っく!」
エディの体は高く持ち上がり、アイザックの傍らにどすんと落下した。
だが入れ替わるように、ソフィアの体が崖下へとぐらりと傾き、ばきばきと木々をへし折る音を立てながら谷底へ吞まれていく。
「ソフィア⁉ ソフィアー!」
アイザックが叫び、エディは唇を震わせながら崖下を見つめた。
その直後、後方から別の声が挙がる。
「どいてくれっ!」
普段冷静な声を荒げながら、後方にいたはずのルイがアイザックたちの元まで駆け上がって来た。動揺する二人を一瞥すると、ためらうことなくソフィアが落下した谷底目がけて身を投げる。
「ルイ先輩⁉ ダメです、危険で――」
エディが止める間もなく、ルイは器用に木々の合間を縫うようにして、急斜面を降りていく。
みるみる内にルイの姿は見えなくなり、残されたアイザックとエディは、ただ茫然と二人の消えた先を見つめることしか出来なかった。
ソフィアはゆっくりと瞼を押し開いた。
体を起こす。全身に痛みはあったが、どうやら骨折や捻挫といった致命的な怪我はないようだ。
やけに体が軽いと思っていると、背負っていたはずの荷物が遥か遠くに転がっていた。随分と投げ出されてしまったらしい。
あの高さから落下して無事なのは、ゴリラの加護者であるおかげだろう。……ゴリラで良かった。
「ここ……どこだろう……?」
とりあえず荷物を回収したソフィアは、ぐるりと周囲を見回した。一面積雪と針葉樹ばかりで、山のどのあたりなのかすら推定出来ない。
だが滑落したことを考えると、騎士団のいる場所よりは遥か下になるのだろう。
(合流……するのは無理よね……。日も暮れてきているし……)
長い間気絶していたのか、空は先ほどよりもずっと暗くなっていた。
このまま移動して夜中に歩き回るよりは、いったんどこかで休んで夜明けを待つ方がいいと判断したソフィアは、さっそく休めそうな場所を探す。
すると運のいいことに古びた山小屋を発見した。
ノックをし、恐る恐る中に入る。室内は作り付けの暖炉があるだけで、家財や食料などは一切見当たらなかった。随分前に持ち主が手放してしまった小屋だろうか、とソフィアは荷物を置く。
「一晩だけ……貸してもらって大丈夫かな……」
軽く床の埃を払い、室内の空気を入れ替える。ありがたいことに毛布が二枚残されており、暖を取る助けになるとソフィアは喜んだ。
暖炉が使えることも確認し、えーとと従騎士の授業を思い出す。
(雪山での対処法は……とにかく体を冷やさないよう火を起こして、体力の温存をする……だったはず)
とりあえず抱えてきた荷物を開封する。
怒られるかもしれないが、なにぶん緊急事態だ。中には食料と着火剤などが入っており、ソフィアは胸を撫で下ろした。
以前は従騎士の訓練なんてと思っていたソフィアだったが、いざこうした状況に置かれた際に、動くための知識や気力が得られていることに素直に感謝する。
(去年までの私だったらきっと何も出来ないまま死んでいたわ……ゴリラの加護者というのも、意外と良いのかも)
まあよく考えれば、そもそもゴリラの神から選ばれなければこんな事態にもなっていないのだが――という意見も浮かんだが、ソフィアはぶんぶんと首を振った。
間もなく日が暮れる。
それまでに燃やす枝を拾ってこなければ、とソフィアは再び小屋の外に出た。ありがたいことに雪は止んでおり、ソフィアは比較的乾いた木材を選びとりながら、せっせと山小屋へと運びこむ。
十分な量が溜まったところで、ソフィアはようやく小屋に戻り暖炉に火を入れた。
最初はなかなか広がらなかったが、枝が乾燥していくのに合わせて、少しずつ橙色の炎に覆われていく。
揺らめくそれを見ていたソフィアだったが、火の勢いが安定したのを確認すると、ようやくほうと息をついた。
(良かった……とりあえず今日はここで休みましょう)
換気のため少しだけ窓を開けておき、ソフィアは着ていた防寒具を脱ぐ。ぐっしょりとした湿り気を帯びたそれを、赤々と燃える暖炉の前に並べた。
軽くなった体で携帯食料を食べていたソフィアだったが、こつんという物音に耳をそばだてる。
「な、何の音……?」
恐る恐る音源を探る。先日の倉庫室よろしく、幻覚とも幻聴ともいえない不安にソフィアはたまらず眉を寄せた。
だが気のせいではなく、コツコツと規則性のある物音は鳴り続けている。どうやら出入り口の方からだ。
(うう、どうしよう……)
虫くらいなら――いや虫もだいぶ嫌だが、まだ我慢が出来る。それよりも熊か。
ゴリラと熊が戦ったら一体どちらが勝つのだろう。もしくは過去にこの山小屋で亡くなった遭難者の霊が――とまで一気に妄想してしまい、ソフィアは緊張を走らせた。
(お化けだったら……さすがにゴリラでは勝てないかしら……)
このまま開けずにとも思ったが、万が一ソフィアと同じような遭難者だった場合、それはそれでとんでもないことになる。
観念したソフィアは覚悟を決めると、出入り口の引き戸にそうっと手をかけた。
「――?」
わずかな隙間からは何も見えない。
諦めて他の場所に行ってしまったのだろうかと、ソフィアはさらに扉を開けてみる。空はとっくに陽が落ちており、大きな雪が再びしんしんと舞い降りているところだった。
「あ、あのー? 誰か、いましたか……?」
返事はなく、ソフィアはやはり気のせいだったのかと首を傾げる。
だが小屋に戻ろうとした時、その足元で丸くなっている小さな動物に気づいた。しゃがみ込んで両手ですくい上げる。
三角の耳とふかふかの体。同じくらい立派な尻尾――
「こんなところに、リスが……」
疑問に思いながらも、ソフィアはリスを小屋の中へと運び込んだ。体は冷たくなっており、眠っているのか身じろぎ一つしない。
(し、死んでる……⁉)
だがわずかに体が上下していることを気づき、ソフィアはとりあえず暖炉の前に毛布を丸め、その中央にリスを寝かせた。
丸くなったまますうすうと髭を揺らすその姿に、ソフィアは思わず目を細める。












