第二章 15
ぎりと唇を噛むと、足元にいたリスに声をかける。
「あなたは逃げて。出来るだけ遠くに」
「……」
だがリスはソフィアを見上げたまま微動だにしない。時間がない、とソフィアはゆっくりと箱に手を伸ばした。水平を保ったままそうっと棚から引き出す。
(時計による発火装置なら、多少の振動は問題ないはず……)
箱の大きさ自体はソフィアの両手に収まるほど。だが見た目からは想像も出来ないほどの重量があり、ひやりとした汗がソフィアの背を伝った。
上部に取り付けられている薬品瓶を確認する。大きな気泡が傾くが、二つの液体が混ざり合う気配はない。
(これを……どこかに移動させないと……)
ソフィアは出来るだけ揺れを与えないよう抱えると、すばやく窓へと駆け寄った。窓枠を押し開けると、隙間からぶわりと強い夜風が吹き込んで来る。
(ここから降りて――ああっ⁉)
下を見ると、なぜか数人の生徒が背を向けて空を仰いでいた。会場から出て花火を観賞しているのだろう。
巻き込むわけにはいかない、とソフィアはすぐに踵を返した。
あれほどためらっていたドアノブを握り込むと、力の限り引き回す。予想通りバキィ、と派手な音がし――取っ手ではなく蝶番側がぐらりと傾いだ。
(こ、こっちが壊れるとは……!)
だが部位を問うている時間はない。
ソフィアは崩れてきた扉を踏み越えると、外へ続く階段を探した。一瞬ちらりと見えた外側のドアノブには、白く細い糸が何重にも絡まっている。
(あれは……何の糸かしら?)
一瞬ソフィアの脳裏に疑問が走ったが、すぐに目的を思い出すと、かつての試験を思わせる速度で階段を駆け下りた。
(早く、早く人がいないところに――)
だが焦るソフィアの目の前で、かちりと時計の針が動いた。その角度を見る限り、次動いたら終わりだとソフィアは絶望する。
ようやく玄関ホールを出たソフィアは、とにかく人のいないところを探し続けた。
(どうしよう、……そうだ! 学校の外なら!)
しかしソフィアの閉じ込められていた校舎から正門までは相当な距離があった。おまけにそこかしこに生徒の姿があり、ソフィアはどいてくださいと懸命に隙間をかいくぐる。
必死になって少しでも遠く――パーティー会場から離れよう、とソフィアはつんのめりながら足を動かした。
(逃げないと……ルイ先輩たちも、巻き込まれて……)
時間がない。
時折上がる花火の打ち上げ音が、ソフィアの焦燥する心をいっそう煽っていく。
「もう、だめ……」
ソフィアは正門を諦め、人のいない場所を求めてひたすらに駆け抜けた。ようやくたどり着いた裏庭で、周囲に誰もいないのを確認した後、自分の腕の中に爆弾を強く抱きかかえる。
(私の――体なら、少しでも爆発の被害を押さえてくれるかも……)
どくん、どくん、と全身の血が逆流しているかのようだ。だがそこに、ふわりとした尻尾が現れ、蒼白になっているソフィアの鼻をくすぐる。
「――⁉ あなた、どうしてここに」
「……」
先ほど追い払ったはずのリスが、なぜかソフィアの抱える箱の上にちょこんと立っていた。ソフィアは慌ててどかそうとするが、するりするりと躱され、すぐには捕まえられそうもない。
「だめなの! ここにいたらあなたまで危険なの!」
ソフィアがどれほど怒鳴ろうとも、リスはけしてソフィアの傍を離れようとはしなかった。器用にソフィアの手に乗り、しきりに首を振っている。
その仕草にソフィアはいよいよ無理だと立ち上がった。
その時、一際大きな花火が上がった。
遠くで歓声が起き、全天を覆いつくすような光の雫が落ちてくる。圧倒的なその輝きを瞳に映していたソフィアは、突如何かをひらめいたかのように目を見開いた。
手にしていた箱に視線を落とす。こくりと息を吞む。
(――お願い、どうか)
時計の針はまもなく。
ソフィアは抱えていた箱を両手で持つと、軽く前方に投げた。
(――間に合って!)
箱が地面に落ちる寸前、ソフィアは力の限りそれを蹴り飛ばした。
急激な放物線を描いたそれは恐ろしいほど空高く跳ね上がり、夜の闇に紛れて見えなくなってしまった。
だが次の瞬間、とてつもない轟音が上空で鳴り響いた。
先ほどの最後の花火の数倍はあろうかという大きさで、黒煙と鮮やかな閃光を放ったそれを見て、生徒たちは再びおおおと感嘆の声を上げている。
どうやら花火と勘違いされているようだ。
(よ、よかった……)
風と共に晴れていく煙を見ながら、ソフィアはへなへなと地面に座り込んだ。しでかした事の重大さを自覚し、腰が抜けてしまったようだ。
すると力強い足音を響かせながら、アイザックが颯爽とソフィアの元に現れた。
「ソフィア! 大丈夫か⁉」
「ア、アイザック……」
極限の緊張状態から解放されたせいか、ソフィアはアイザックの顔を見た瞬間、ぼろぼろと泣き出してしまった。ぎょっとしたアイザックは、さらに慌てた様子でソフィアの安否を確認する。
「け、怪我でもしたのか⁉ 痛みは⁉ 歩けるか⁉」
「け、怪我は、ないけど……ち、力が抜けて……」
聞けばルイを含めた三人は、戻ってこないソフィアを心配し、手分けして捜索にあたっていたらしい。その途中、明らかに花火とは威力の異なる爆発が起きたことで、これは何かがあったと気づいたそうだ。
(みんなで探してくれていたんだ……)
ルイは花火を誰かと見ていたわけではないのか、という安堵が浮かんだあたりで、ソフィアはぶんぶんと首を振った。
自分のとった勝手な行動のせいで、余計な苦労をかけているのに、なんておこがましいことを考えているのか。
すぐに立ち上がり戻ろうとしたが、足がおぼつかないソフィアを心配したアイザックが、背負って移動すると申し出た。
倉庫に監禁された下りは適当にごまかしつつ、たまたま爆弾を発見したのだと、彼の背に乗ったまま顛末を説明する。
するとアイザックは、こちらがいたたまれなくなるほど悲痛な表情を滲ませた。
「本当にごめん! おれがもっとちゃんと確認していれば……」
「アイザックのせいじゃないよ。私の不注意だもの」
「でも……」
ようやく会場に戻って来たものの、パーティーが終わったこともあり、生徒はほとんど残っていない状態だった。
アイザックの背から下ろしてもらい、エディの姿を発見した二人は、急いでそちらに駆け寄る。
案の定エディからどこに行っていた、心配をかけるなと散々説教されたものの、ソフィアが爆弾を見つけた経緯を説明すると、急に眉間に皺を刻んだ。
「待て、三階の倉庫室だと?」
「う、うん」
「そこはパーティーが始まる前に、僕が一度確認した。奥の棚とやらもだ」
「……え?」
「断言してもいい。そこには何もなかったはずだ」
沈黙が流れる。
エディの言葉が確かならば、それが意味するところは一つだけだ。
(つまりパーティーの間に、誰かが爆弾を仕掛けた……)
事前に仕込んでいたわけではなく、今日この数時間の間に、犯人が学校に入り込んだことになる。
だが名門校という誇りもあり、ディーレンタウンのセキュリティはかなりのレベルであるはずだ。
(……ましてやパーティーの日は警備が厳重になっているから、外部から入り込むのは難しい……だとすると、爆弾をしかけた犯人は、この学校の生徒か関係者……?)
たしかに当初から、生徒によるいたずらである可能性は示唆されていた。
だがソフィアが発見した爆発物は間違いなく本物で、火薬の量からしても簡単に入手できるものではない。どう言葉にしていいものかと悩んでいると、遅れてルイが姿を現した。
「アイザック、エディ、すまない」
「先輩、無事ソフィアを発見しました」
「ああ。ありがとう」
ルイがふとソフィアの方を振り返った。
ほぼ同時にソフィアは顔をそむける。
(ど、どうしよう……顔まともに見れない……でも謝らないと……!)
好きだと自覚してしまったせいか、ルイの顔が直視出来ない。
しかし一人で勝手に行動したことや、探してもらったという話を聞いた以上、何も言わずに済ますという選択肢はない。
ソフィアはぎこちなく頭を下げ、深く腰を折り曲げた。
「ルイ先輩、すみませんでした……! 勝手にいなくなった挙句、単独で行動してしまい……」
「……」
ルイの返事はない。
いっそう困惑するソフィアは、顔を上げることすら出来ず、その場でだらだらと汗を流した。だがずっとこのままではいられない、と恐る恐る顔を上げる――するとルイはソフィアを見ようともせず、じっと別の方向を向いているではないか。
(どうしよう……ものすごく怒っておられる……!)
ソフィアの不安を裏付けするかのように、ルイはこちらを一度も見ないまま、普段通り冷静に口を開いた。
「――詳しくは後日騎士団で話を聞かせてもらう。とりあえず今日は休め。エディ、彼女を寮まで送ってくれ」
「だ、大丈夫です! 私も手伝いを……」
「無理をするな。アイザック、いくぞ」
それだけを言うと、ルイはどこかへ行ってしまった。
普段温厚なルイにしては珍しい物言いに、アイザックは心配そうに何度もソフィアの方を振り返っていたが、進言することなど出来るはずもなく、そのまま黙ってルイの後に続く。
「――ほら、僕たちも行くぞ」
「う、うん……」
エディに急かされ、ソフィアもようやく返事をする。
だが寮に向かう道すがら、とてつもなく深い悲しみに襲われていた。
(私……ルイ先輩に、嫌われて、しまった……?)
戻って来てから一度も、目が合うことが無かった。それに気づいたソフィアの鼻を、かすかに残った火薬のにおいがふわりとかすめる。
空にはまだ、先ほどの黒煙がわずかに残っていた。












