第二章 14
「良かった。本当はね、一人はちょっと怖かったの」
「……」
リスはまるで言葉を理解しているかのように、ただ黙ってソフィアの傍に来た。すり、と頬を撫でる毛は柔らかく、ソフィアはくすくすと声を漏らす。
「くすぐったい。……もしかして、慰めてくれているのかしら」
ありがとう、と呟きながら、ソフィアはリスの頭を指先で撫でた。最初はおとなしく撫でられていたリスだったが、嫌だったのかするりと身を捩る。
やがてソフィアの肩に上ったかと思うと、しきりに出入り口の方を振り返っていた。
「出ないのか、って? ……うん。もう少しだけ、いようと思って」
パーティーが終わるまで。それまでここにいれば、きっとアレーネも怒られはしないだろう。怪文書の件もいたずらだとほぼ決まりのようだったし、ソフィアが会場にいなければならない理由はどこにもない。
それでも、と心の奥深くに小さな後悔だけが残る。
(……最後まで、一緒にいたかったなあ……)
そっと視線を落とす。
シャンデリアの下では大輪の花のようだったドレスは、色彩を失って灰色のように見えた。窓ガラスに映るソフィアの顔にも、先ほどの花咲くような美しさはなく、孤独と不安で泣きそうになっている。
動こうとしないソフィアを心配しているのか、リスは再び窓辺に駆け上がると、しきりにソフィアの前を走り回った。
その仕草が可愛くて、ソフィアはつい話しかけてしまう。
「――出来ればね、今すぐ出て行きたいの」
「……」
「今日の私、とっても綺麗にしてもらえて。だから……ルイ先輩に、もう少しだけ見てもらえたらなあって」
リスはぴたりと動きを止め、ソフィアの言葉を待つかのように窓枠の端に立った。
三角の耳と、体と同じくらい大きなしっぽがぴんと垂直に立っており、ソフィアは「内緒ね」と目を細める。
「褒めてもらいたいとか、そういう訳じゃないんだけど……。先輩の隣にいると、すごく幸せなの。ドキドキもするし、他の子に見つかったら怖いっていうのも、分かっているはずなのに……」
ソフィアはようやく、先ほどの胸の痛みの正体を悟った。
自分がいなければ、他の女子生徒たちもルイと話すことが出来る――そう思ったことは本心だ。だが同時に――他の女子と話してほしくない、とも感じていた。
(パートナーだってたまたま選ばれただけで、普段話しているのも後輩としてなのに、……私、どうしてこんなことを思ってしまうのかしら)
こうしている間にも、ルイのあの笑顔が他の子に向けられているかもしれない。
ソフィアのようなゴリラ女ではなく、普段から好きな人のために可愛くあろうと努力している女の子たちが、ルイの周りで楽しそうに微笑んでいるかもしれない。
そう考えるだけで、気持ちがしゅんと音を立ててしぼんでいく。
(私、どうして、もっと可愛くなろうと頑張らなかったのかな……)
エディが飾り付けてくれたけれど、これもしょせんは付け焼刃だ。好きな人に振り向いてもらうため、常日頃から努力している子たちには到底かなうものではない――こんなこと、今まで一度も考えたことなかったのに。
やがて、ドォンという重厚な響きが壁を揺らした。
窓の外に目を向けると、夜空の真ん中で鮮やかな火花が丸く広がっている。一瞬で消えてはまた次の花。どうやらパーティーの終幕を告げる打ち上げ花火のようだ。
(……綺麗……今頃、ルイ先輩も見てるのかな……)
隣には誰がいるのだろう。アイザックか、エディか。
ルイに恋をする女の子か。
出来ることならば、自分もその場にいたかった。
でも結局自信も勇気もなくて、こんなところにたった一人で座り込んでいる。
(情けないなあ、私……)
大きな音で逃げ出すかと思ったが、リスは相変わらず黒目ばかりの瞳をまっすぐソフィアに向けていた。それを見たソフィアはゆっくりと微笑む。
「――私、ルイ先輩が、好きなのかな」
「……」
気持ちが言葉になると、途端に世界の輪郭が変わっていく。
『好き』というたった二つの音が、ソフィアの中に生まれていた嫉妬心や独占欲を柔らかく包んで、何かとても大切な――愛おしいものに変貌させた。
(……そうか、私……)
ようやく見出した答えに、ソフィアははああーと長いため息をつきながら、がくりと顔を伏せた。だが少しずつ心臓の拍数は激しくなっていき、ソフィアは静かに目を閉じる。自分がこんな感情を持つなんて思っていなかった。
でも、不思議と――嫌な感じもしなかった。
「聞いてくれてありがとう。ここだけの秘密にしてね」
「……」
するとリスは役目は果たしたと言わんばかりに、するりと窓枠から絨毯へと降り立った。ソフィアを残し、部屋の奥めざしてたったかと走っていく。
外に出る穴でもあるのかしら、とソフィアが小さく手を振って見送っていると――なぜかとんでもない勢いで戻って来た。
「ど、どうしたの?」
キュル、キュルという高い音に、ソフィアは「リスの鳴き声初めて聞いたわ」と目をしばたたかせる。
だが当のリスとしてはかなり興奮しているらしく、必死になってソフィアのドレスの裾を噛んではぐいぐいと引っ張っている。
(い、一体どうしたのかしら?)
様子がおかしいと不安になったソフィアは、リスにいざなわれるまま棚の方へと足を運んだ。すると一番奥の棚に置かれていた箱の中に、奇妙なものを発見する。
「……時計……?」
さっきはあることすら気づかなかった。ソフィアは中を確かめようと手を伸ばす。
すると突然足元からジッ、っという短い鳴き声が上がった。下を見るとリスが尻尾を床にぺたりと付けており、ソフィアは嫌な予感を覚えてすぐに手を下ろす。
箱に触らないよう、そうっと首を伸ばして覗き込む。
すると中にはガラス瓶に入った透明な液体と、それを真ん中で仕切る板。そこから伸びる黒いコードが、時計と箱の下に繋がっているのが確認できた。
どこかで見覚えが……と記憶を辿っていたソフィアだったが、すぐにあっと声を上げる。覚えがあるのは当たり前だ。それを知ったのはわずか三日前――従騎士訓練の座学でのこと。
(こ、ここ、これ、爆弾……)
現物を見るのは初めてだが、教本のデッサンとも酷似しているから間違いないだろう。
(は、発火装置には、いくつか種類があったはず……)
ソフィアは必死になって授業を思い出す。瓶の中に溜まる液体を見る限り、二種類の薬品が混ざり合うことで発火する仕組みだろう。
例として挙がっていた装置は、時間経過によって仕切り板が溶けると書かれていた。しかしここで使われている仕切り板は随分と分厚いし、表面が泡立って溶けている様子もない。
(じゃあやっぱり、こっちの時計が発火装置……コードと繋がっているから、ある時刻になると、ってこと?)
震える膝を叱責し、ソフィアは恐る恐る箱の中を再見する。時計には針が一つしかなく、盤面に数字も書かれていなかった。
その針はまもなく頂点を差すところまで来ており、ソフィアはこくりと息を吞む。
「もしかして、これが上に来たら……」
窓の外は先ほど同様、大輪の花が夜空を彩っている。だがその轟音が全く耳に入らなくなるほど、ソフィアは大きく拍打つ自分の心臓の音だけに集中していた。
(私が、――やらなきゃ)












