第二章 11
(怖っ! えっ何⁉ 今の速度人間⁉ ゴリラじゃなくて⁉)
実はソフィアには、何が起きたのかしっかりと目視出来ていた。
刃物を突き付けられたものの、ソフィアは抵抗をしなかった。するとカリッサと歓談していたはずのルイが、女子生徒の肘を下から上にかけて一瞬で叩き上げたのだ。
結果、手にしていた刃物――実際は単なるハサミだったのだが――が弾け飛んだという。
だがほとんどの人間には何が起きたのか見えておらず、どうしたどうしたとざわめきだけが湧き起こった。
注目を集めてしまった女子生徒は違うんです、と震える声で弁明する。
「け、怪我をさせるつもりはなくて、ちょっと、冗談のつもりで……」
「ハサミとはいえ立派な刃物だ。冗談ではすまされないぞ」
「う、うう……」
(ど、どうしよう……何だか大ごとに……)
ナイフでなかっただけでソフィアとしては僥倖だったのだが、ルイに見つかったのが運の尽きだ。
周囲には事情を知らない参加者らも集まり始め、ソフィアはおたおたとルイの袖を引く。
「せ、先輩、私なら大丈夫ですから」
「しかし――」
ソフィアに呼ばれ振り返ったルイは、幅広の目を再び強く見張った。その視線が向いている先をソフィアも追いかける――と、ドレスの袖に大きく切り込みが入っているではないか。
どうやらハサミの刃がわずかにかすめてしまったようだ。
露わになった二の腕を見て、ソフィアはあーあと肩を落とす。だがソフィアの落胆以上に、ルイの方が動揺していた。
「ソフィア、怪我は」
「い、いいえ、袖が切れただけで特には」
「そうか」
ルイは目元にわずかな安堵を滲ませた。しかしすぐに自身の上着を脱ぐと、ソフィアの肩にかける。
状況を掴めずきょとんとしているソフィアをよそに、彼女の背と膝裏に手を差し入れると、そのまま横向きに抱き上げた。周囲からきゃあー! という黄色い歓声が立ち上る。
「せ、せせ、先輩? 怪我はしていませんって!」
「……」
「お、下ろしてください!」
生まれて初めての体勢に、恥ずかしいやらいたたまれないやらのソフィアは、必死になってルイを説得した。
しかしルイはそのまま颯爽と会場の出入り口目指して歩いていく。
会場を出た後も、誰もいない廊下をルイはずんずんと歩き続けており、さすがにもう勘弁してほしい、とソフィアはすぐ近くにあるルイの顔をちらと仰いだ。
この距離で見ると本当に恐ろしいほど整った美貌で――でも今は、少しだけ悲しそうにも見える。
「先輩、本当に大丈夫ですから」
「……女性を守れないなんて、騎士失格だ」
「それを言うなら、わ、私だって騎士です! ま、まだ、見習いですけど……」
その返答に、ルイは一瞬だけ毒気を抜かれたかのように目を丸くした。少しだけ歩く速度を緩め、ふ、と口元を緩める。
「そういえばそうだったな」
「で、ですから、そろそろ」
「このまま、新しいドレスを買いに行こう」
は⁉ とソフィアは心の中で目を剥いた。
しかしルイは本気らしく、いまだに進路はまっすぐ正門方向をめざしている。
(た、たしかに先輩なら王都まで行けるかもしれないけど……こ、この体勢で十キロ走られるのは無理! どちらかというと私が限界!)
だがルイがいつだって真面目なのは、この数か月で十分すぎるほど理解していた。
きっとソフィアが何を言ったところで、新しいドレスを用意するまで納得しないのだろう――と考えたところで、ソフィアははっと思い出す。
「せ、先輩、ちょっと待ってください!」
「大丈夫だ。たかだか十キロ程度、一時間もあれば――」
「ではなくて! ドレス、ありますから!」
ルイには会場の出入り口付近で待ってもらうようお願いをし、ソフィアは一旦寮へと戻った。
クローゼットを開け、今朝がたしまい込んだ箱を取り出しながら、こんなはずではなかったと嘆息する。許されるなら今すぐ逃げ出したい。
(でも……あそこまで真剣に怒ってくれた先輩に対して、それは失礼よね……)
地味な濃紺のドレスを脱ぎ、袖を通すつもりもなかった深紅のそれを身に纏う。サイズは恐ろしいほどにぴったりで、改めて実家に向けて文句の一つも言いたくなった。
着替えを終え、再び会場に向かう。
既にパーティーも中盤を迎えているためか、寮にも中庭にも人の気配はない。会場につづく廊下にも誰もおらず、ソフィアは重たい足取りで一歩一歩足を進める。
すると突然男の声がした。
「あれ、君は……」
「――⁉」
突然話しかけられ、ソフィアは心臓が口から飛び出るかと思った。振り返ると、廊下の窓辺に一人の男性が立っている。
まったく気配を感じなかった、とソフィアが驚いていると、男性はこちらを見て優しく微笑んだ。
「もしかして、カリッサの友達の」
「あ、ええと、レオハルト、さん?」
正解、と答える代わりにレオハルトが口角を上げた。
滑らかな褐色の肌は肉食獣のようで、細められる金の虹彩も実に鮮やかで美しい――だがソフィアはなぜか、心が不安定にさざめくのを感じてしまう。
「名前を覚えてもらえるなんて、光栄だな」
「そんなこと……それより、カリッサはどうしたんですか?」
「どうやら友達といる方が楽しいみたいでね。この通り置いてけぼりさ」
わざとらしく肩をすくめるレオハルトに、ソフィアは苦笑を浮かべた。
早く戻らねばルイを待たせてしまうことになる、と適当に会話を切り上げようとしたソフィアだったが、レオハルトが突然顎に向かってするりと手を伸ばしてきた。
驚き身じろぐソフィアを捉えたまま、楽しそうに口角を上げる。
「せっかく素敵なドレスなのに、お化粧はしないのかい?」
「な、……⁉ は、放してください!」
「ぼくなら、君をもっと綺麗にしてあげられるけど?」
(何この人⁉ カリッサの彼氏じゃないの⁉)
もしかして高等部ともなると、これくらい触れあいは普通なのだろうかと愕然とするが、レオハルトから発される言いようのない不信感に、ソフィアはとにかく強く首を振った。
おっと、とレオハルトがおどけた様子で手を放す。
「気性の荒い子猫みたいだな」
「わ、私、急いでいますので」
「そんなこと言わないでさ。ぼくも一人で寂しいんだ――」
レオハルトの目がゆっくりと眇められる。軽佻浮薄な態度を見せてはいるが、その瞳の奥にはなにか底知れぬ意志を秘めているようで――ソフィアは思わず眉を寄せた。
だが難渋な空気を消し飛ばす勢いで、アイザックの大声が二人の頭上に飛来する。
「ソフィアー! ここにいたのかー!」
「アイザック!」












