第二章 9
「……どうして、泣いているんだ?」
「……」
気づかれてしまった、とソフィアは陰鬱な気持ちで唇を噛んだ。一刻も早く逃げ出したい――こんな格好悪い自分を見られたくなくて、無理やり口角を上げてみる。
「き、気のせいです。ちょっと目にゴミが入った、だけで」
「それは大変だ。すぐに医務室に行こう」
言うが早いか、ルイはソフィアの手を握ると来た方向を振り返った。その力が思ったよりも強いものだったので、ソフィアはわたわたと釈明する。
「だ、大丈夫です! 部屋に戻ればなんとか」
「異物が角膜を傷つける場合もある。処置は早い方が――」
「ち、違うんです! その……ほ、本当は入ってないんです……」
ようやくルイの力が弱まり、ソフィアはほっと息をついた。だがルイはソフィアの手を握りしめたまま、次の言葉を待っているようだ。
迷いのない真っ直ぐな視線にいたたまれなくなったソフィアは、仕方なく自らの失態を口にする。
「さっき受付で、パートナーが必要だと言われてしまって……でも私、何も知らなくて一人で行ってしまって、それで……」
「パートナー?」
「は、はい……」
するとルイは何事かを考えるかのように手を口元に添えた。
これ以上ないほど情けない告白をしたのだから、そろそろ解放してほしい――と思うソフィアだったが、何故かルイは手を握ったまま離してくれる気配がない。もしかして繋いでいることすら忘れているのだろうか。
(は、早く逃げないと……こんなところを見られたら、先輩のパートナーの方にあらぬ誤解を……)
そう考えた途端、ソフィアは何故か胸の奥がちくりと痛んだ。自分でも分からない感覚に、思わず首を傾げる。
だがこうしてはいられないと、そろりそろりと掴まれている指先を一本ずつずらしていく。
ようやく拘束から抜け出せる――というぎりぎりのところまで動かしたところで、再びルイががっしりと手を握りなおした。
はい? と困惑したソフィアは恐る恐るルイを仰ぎ見る。
「そうか、ちょうどよかった」
何が、とソフィアが尋ねる間もなく、ルイはその整った相貌をにっこりと微笑みに変えていた。
――パーティーに参加していた女子たちは、開いた口が塞がらなかった。
「み、見まして⁉」
「ど、どうして、あの子が――スカーレル先輩と一緒にいるの⁉」
カリッサたちが入場してから十数分後、大ホールの入り口付近で何やら大きなざわめきが巻き起こった。
少し遅れているというスカーレル先輩がようやく到着したのかしらと、女子たちは自分のパートナーそっちのけで様子を窺う。
案の定、洗練された礼服を纏ったルイが姿を見せた――が、その隣には何故か受付で追い払ったはずのソフィア・リーラーがいるではないか。
丈のあっていないみすぼらしいドレスを着ており、色も質素でこの華やかな場に全くふさわしくない。隣に立つルイの煌びやかさに比べると、本当に目も当てられないほどだ。
だがそんなソフィアを、何故かルイはパートナーとして真摯にリードしている。
「どういうことですの!」
「あたしだって知りませんわ! どうしてスカーレル先輩が……」
「……きっと調子に乗ってるのよ。そうだわ。わたくしたちで分からせてあげませんこと?」
するとカリッサが、そっと自身の持っていたグラスを持ち上げた。細やかな気泡を浮かべるそれを見て、他の取り巻きたちもふふと色めき立つ。
ホールの片隅に集い、ひそひそとささめきあっていた女子たちは、そのままにやりと口角を上げた。
そんなやり取りを知らないソフィアは、がたがたと震えながらルイの方を見上げた。
「あ、あの、先輩」
「うん?」
「ど、どう考えてもおかしいんですが」
「何がだ?」
「せ、先輩のパートナーに、私って、おかしいですよね⁉」
同意を求めて吐き出したソフィアだったが、ルイは本気で理解出来ていないらしく、首を傾げていた。たまらずソフィアが畳みかける。
「ですから! 本当のパートナーの方はどうするんですかと!」
「本当のパートナー?」
「いますよね⁉」
「いや?」
口を半端に開けたソフィアに向けて、ルイは照れたように微笑んだ。
「パートナー必須だなんて、俺も初めて聞いたから。先に教えてもらえて助かった」
「……? で、でも、先輩なら、他の子からたくさん誘われていたのでは……」
「パーティーに来るかとは聞かれたが……パートナーどうこうという話はなかったな」
なんということでしょう。
きっと誰かが誘うに違いないという算段で、すべての女子生徒が牽制しあった結果――誰もこの高嶺の花に手を伸ばさなかったというのです。
(そんな偶然ある⁉)
だがルイの態度を見る限り、嘘をついている様子はない。
もちろんソフィアとて『恐れ多すぎる』と何度も断ったのだが、ルイの方から『どうしてもパーティー会場に入りたい』と頼まれて渋々同行しているのだ。
ソフィアの不安通り、会場に入った瞬間、すべて(多分比喩ではない)の女子の視線がこちらを向いた。
驚き、疑心、羨望――さまざまな感情が渦巻いており、今すぐにでも帰りたいとソフィアはおどおどと視線を巡らせる。
すると、先ほど受付でカリッサとともにソフィアを馬鹿にしていた女子が、花のような笑顔を浮かべながらこちらに歩み寄って来た。
「ごきげんよう、ソフィアさん」
「ご、ごきげんよう……」
「先ほどはパートナーがおられないなんて勘違いしてごめんなさい。まさか、スカーレル先輩を待っていらしたなんて」
「え、ええと……」
まさか十分前に結託したパートナーです、などと白状出来るはずもなく、ソフィアは曖昧な笑みで言葉を濁した。
すると両手にグラスを持った別の女子が現れ、ソフィアの前に一つを差し出す。
「喉が渇いていませんこと? よければこちらを」
「あ、ありがとう、ございます……」
差し出された一つを受け取ろうと、ソフィアはそっと手を伸ばす。だがソフィアがグラスの足を持つよりも明らかに早いタイミングで、女子生徒は手を離した。
その瞬間、取り巻いていた女子たちが揃って口角を上げる。
(――あ、)
ソフィアもまたそれに気づき、大きく目を見開いた。
このままではグラスが割れてしまう――と気づいた瞬間、すとんと真下に腰を落とし、落下するグラスを恐ろしいほどの反射神経でぱし、と掴み取っていた。
それは瞬きの合間の出来事で、罠にかけようとした女子たちも、最初は何が起きたのか理解出来ていなかった。
だがソフィアはすぐに背筋を伸ばすと、何事もなかったかのようにグラスを手にして微笑んでみせる。
「い、いただきますね」
「……」
恐縮した様子で頭を下げるソフィアに対し、女子たちはまるで幻でも見ていたかのような心地で、ぱちぱちと何度も瞬いていた。
しかしドレスはおろか床にすら一滴の汚れもないことに気づいたのか、ぎこちない笑みを浮かべる。












