第121章「ドキドキ温泉パニック(前編)」
朝の光がカーテンの隙間から差し込み、白いシーツに斑模様を描いていた。
時計の針はすでに十一時を指している。
「ふわぁ……ん~……」
フィオナはベッドの上で大きく伸びをした。赤いショートヘアが枕に乱れて張りつき、胸の谷間からは薄手のキャミソールがずり落ちそうになっている。
昨夜の戦い――あのダークネスジャイアントとの死闘を思い返すと、勝利の安堵からぐっすり眠り込んでしまったのも無理はなかった。
けれど、目覚めた今。胸の奥に残っているのは勝利の余韻ではなく――別の感情だった。
「……シルファめ」
頬をぷくっと膨らませながら、昨夜の場面が脳裏に蘇る。
戦いのあと、彼女はみんなの前で堂々とケイに愛を告げ、そして……あのキス。
明るく振る舞うフィオナの心臓に、今も針が突き刺さっているようだった。
「……ズルいわよ、そんなの」
嫉妬に唇を尖らせながらも、やがて表情がふっと緩む。
瞳に揺らぐのは、シルファに対する憎しみではなく、どうしようもない哀しみ。
「でも……ごめんね、シルファ」
ベッドの端に腰を下ろし、膝を抱えて呟く。
陽キャな彼女には似合わないほど、弱々しい声音だった。
「あなたがどんなにケーちゃんを想ってても……一緒にはなれないの」
目を伏せ、胸元をぎゅっと握りしめる。
誰にも聞かせるつもりのない秘密の独り言。
「知っちゃったから……私とケーちゃんは……運命に結ばれちゃってるって」
最後の言葉は、誰にも届かないほど小さく消えていった。
窓の外では、雲ひとつない青空が広がっていた。
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昼下がりの王都。
柔らかな日差しの中、馬車に揺られながらケイとシルファは山道を進んでいた。
「シルファ、疲れてないか?昨日は大変だっただろ?」
不意にケイが声をかけると、彼女は小さく首を横に振った。
「いえ……むしろ、とても幸せです。こうしてまた平和になってケイとご一緒できるだけで!」
その頬はほんのり赤らみ、視線は膝の上に落ちている。
控えめな声音の奥に、隠しきれない嬉しさが滲んでいた。
ケイは思わず言葉を詰まらせる。
(……なんでこんなに、シルファは真っすぐで可愛いんだよ)
やがて馬車が止まり、二人は降り立った。
山あいの澄んだ空気に硫黄の香りが混じり、遠くの谷から白い湯けむりが立ちのぼっている。
「わぁ……本当に、湯けむりが……」
シルファは小さく息を呑み、両手を胸の前で重ねた。
「夢みたいです!ケイと、こんな場所へ来られるなんて!」
「ははっ!大げさだな」
そう言いながらも、ケイの耳も赤く染まっている。
二人の前に現れたのは、古びた木の門を構えた温泉旅館――“蒼雲の湯”。
苔むした石段の先に、瓦屋根と白い湯けむりが重なり合い、静かな荘厳さを漂わせていた。
「ここが……」
ケイが呟くと、シルファはそっと横顔を見つめ、微笑んだ。
「まるで、新婚旅行のようですね!」
その言葉に気づいた瞬間、シルファは自分でハッとし、顔を真っ赤にして俯いた。
「そ、そうだな……俺達結婚するしな」
ケイも慌てて言葉を返すが、胸の奥が熱くなるのを隠せない。
二人の間に流れる沈黙は、ぎこちないはずなのに、どこか心地よく甘やかだった。
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二人が通されたのは、プライベートで露天風呂を楽しむことができる和室、つまり露天風呂付客室である。
畳の香りが心地よく漂い、障子越しに差し込む午後の光が柔らかく部屋を照らしている。
「すごいな!こんな広い部屋と露天風呂を俺たちだけで?」
ケイが畳に腰を下ろして感心すると、シルファは微笑んで答えた。
「はい!王都でも評判の旅館ですし!きっと特別に、よくしてくださっているのでしょうね!」
仲居が部屋を後にすると、机の上にはすでに浴衣が二組、整えて置かれていた。
シルファはそれを手に取り、そっと胸に抱きしめる。
「浴衣……久しぶりです!少し、緊張しますね!」
「きっと似合うだろうな!」
ケイが優しい表情で何気なく言ったその一言に、シルファの頬がふわりと朱に染まる。
「け、ケイ……そういうことを急に仰られると!」
視線を伏せ、浴衣を抱えたまま障子の奥の更衣室へと消えていった。
しばらくして。
「お待たせしました!」
おずおずと現れたシルファは、白地に薄紫の花模様があしらわれた浴衣に身を包んでいた。
普段とは違い、素肌を柔らかく包み込む布のせいか、彼女の表情もどこかはにかんでいる。
「ど、どうでしょうか……? 似合っていますか?」
両手で袖をつまみ、恥ずかしそうにケイを見上げる。
ケイは一瞬、言葉を失った。
戦場で共に背中を預けた強い仲間が、今はただ一人の女性として、彼の目の前に立っている。
「綺麗だ……すごく、似合ってる……」
短い言葉だったが、ケイの声音は真剣そのものだった。
シルファの胸に、じんわりと温かいものが広がっていく。
「ふぇっ……?!あ、ありがとうございます……ケイにそう仰っていただけるなら、私……!」
シルファは胸元を押さえ、小さな吐息を漏らした。
その瞳はすでに、彼に心を奪われた乙女そのものだった。
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夕暮れ時。
庭園に面した縁側に、ケイとシルファは並んで腰を下ろしていた。
石灯籠の明かりがともり始め、池の水面には朱色の空が映り込んでいる。
「いい景色だな」
ケイがぽつりと呟くと、隣のシルファは小さく微笑んだ。
「はい!本当に……こうして静かな時間を過ごせるのは皆様が本当に頑張ってくれたおかげですね!」
風が吹き抜け、浴衣の裾がふわりと揺れる。
戦いの最中には決して見せなかった、柔らかな表情のシルファ。
ケイはその横顔を見つめながら、胸が熱くなるのを感じた。
「シルファ……」
「は、はい」
少し声を低くして言葉を探すように続ける。
「戦ってるときも、いつも俺のことを信じてくれて、支えてくれて本当に感謝してる!ありがとな!」
「そ、そんな……!」
シルファは慌てて首を振る。
「私は、ただ……ケイのお力になりたかっただけです!それだけで幸せでした!」
その声音は震えていた。
ケイに認められただけで、胸いっぱいになっているのが伝わってくる。それからお互いの名前を呟く。
「シルファ……」
「ケイ……」
沈黙が落ちる。
虫の音と、池に落ちる水滴の音だけが耳に残る。
縁側に、静かな夜の気配が満ちていた。
庭園の池には月明かりが映り込み、ゆらゆらと揺れる光が二人の浴衣に反射している。
ケイは拳を膝の上で握ったまま、ただシルファの瞳を見つめていた。
彼女もまた、頬を染めながら視線を逸らさずに受け止めている。
時が止まったように、虫の音さえ遠くなる。
握られた手のぬくもりが、鼓動の速さを互いに伝えていた。
ふと、シルファのまつ毛が震え、そっと伏せられる。
その仕草に導かれるように、ケイはゆっくりと身を寄せた。
距離が縮まる。
吐息が触れ合いそうなほど近づいた瞬間、二人の影が重なった。
言葉はいらなかった。
ただ唇が触れ合った瞬間、胸の奥にあふれる想いがすべて伝わっていた。
柔らかく、温かく――
その口づけは誓いのように、長い夜の幕を開けた。
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同時刻。同じ旅館の、隣の部屋。
畳の上にごろりと横になりながら、エミリアは休暇を満喫していた。
胸元が大胆に開いた浴衣姿は、本人にその気がなくてもやけに色っぽい。
「いやぁ~、それにしてもダークネスジャイアントによく私達勝てたわよね」
エミリアは足をぱたぱた揺らす。
「最後なんかさ、ケイのあの一撃、バッサーン!って決まって……!あんな切り札があるなんて思わなかったわ!」
「た、たしかに……あの強さは尊敬に値しますね!」
正座してお茶をすするルナは、真面目な声で返す。
だが耳の先はほんのり赤い。
「ふふっ、照れてる照れてる。ほんと真面目なんだからぁ」
エミリアはにやりと笑いながら、ルナの背中をバシンと叩いた。
「で、で! ケイと姫様のこと、どう思う?」
「な、なぜそこでケイ殿とシルファ殿の名が出るのですか!」
ルナは咳き込みそうになりながら背筋を伸ばす。
「だってぇ~、見ててわかるじゃない。あの二人、いい雰囲気だったでしょ?」
「……わ、私はそういう……色恋沙汰には疎いので……」
ルナはお茶を置き、視線を逸らした。
だが耳まで真っ赤なのはごまかせない。
「ほらぁ、やっぱり気づいてるんじゃない!」
「ち、違います! わ、私はただ……その……」
「その?」
「……あ、ああいうのを見ると……胸が……その……」
「おやおやぁ? ルナちゃん、実はムッツリなんじゃな~い?」
「む、ムッツリではありませんっ!!!」
必死に否定する声が、夜の旅館に響き渡った。
エミリアは楽しそうに笑い転げ、ルナは顔を両手で覆ってうずくまる。
まさか、このすぐ隣の部屋で本人たちがしっとりと寄り添っていることなど、二人はまだ知る由もなかった――。




